以前アニメの主人公名を使った、死刑に至るような事件があった。また、秋葉原では凶悪な連続通り魔事件が起こった。 秋葉原は世界に冠たる電子機器、映像機器、ゲームソフト等からメイド喫茶にいたるまでヴァーチャル世界の聖地である。そこを選んだと言うのは単なる本人の言う、「人が多いところを狙った」に済まない象徴性を感じるのであるが。さらに今も「出会い系サイト」、「学校裏サイト」、「闇の求人」、「プロフ」などという、携帯やパソコン上の「裏社会」でも様々な事件、社会的問題が起きている。過日死刑判決が二人に下った殺人事件も、前述の闇サイトで知り合った互いに関係ない3人による犯行である。
アキバ同様、あのディズニィーランドもそうしたヴァーチャル世界の総本山のようなところである。そこにあるのは視覚的驚きや快楽だけ、想像力が介在する余地のないくらいのものを全部見せて一体何になるのだろうか!?我々の子供の時の絵本の方が余ほどイメージを膨らませることができるだろう。
このような、アニメ、携帯、パソコン、CGを使った映像、テーマパーク等のヴァーチャル文化の大なる罪を昨今特別に感じるのである。先ずそれらは、営利主義ベースの刹那的、快楽的で終始。何某かのヒントだけを与え、あとは当人の想像力や思考や感覚に委ねる、そういう過程で知性や感受性を練磨させるという文化本来の機能を予め失ったものである。
再三言うように、それでなくともこの国は商業主義、マスメディアの世論誘導、情報操作に乗せられやすい国民性、昨今の軽薄愚俗極まりない「サムライジャパン」なるもののバカ騒ぎには閉口させられるが、この「平成エライヤッチャ!騒ぎ」は「弔いジャパン」とでもいうべき政治・経済の閉塞状況を隠蔽するのは好都合だろう。
このような、増幅された「受身」の姿勢は、往々にして主体的な感受性も創造力も覚醒した批判精神もない人格を作り上げていく。そしてそれはやがて≪ヴァーチャルな世界と現実とを識別できない「ヴァーチャル人格」≫に繋がるのである。
そのヴァーチャル人格同士が互いに「理解ある」コミニュケーションを得ると妙なリアリティーあるコミニュティーができあがる。それは時に冒頭述べたような「裏社会」を作る。前述の「共犯者募集」の闇サイトも、「オレオレ詐欺」も根はこのようなものにあると思えるのである。オレオレ詐欺というのは、なまじ「現実を知っている」犯罪者には考えつかない発想である。いわば「夢想の所産」。ところが時として現実の方が夢想に対応できない場合がある。まさか孫子の名を語ってそのようなことをするなど考えられもしない。ところが、たまたまその夢想がまんまとうまくいった。その「虚」を突いた犯罪と言える。
ともかく、その現実には通用しない屈折した人格や歪んだ価値観が、逆に現実の方を不当に思うようになり、現実を憎悪し、ますます自己中心の幻視的「オタク人格」が形成されていき、極端な場合冒頭のような事件に結びついたりするのである。気に食わなければ「殺人予告」すらする。
何よりも、ヴァーチャル世界と因果関係を持つ事件についての法的対蹠やネット規制の動きは現実のものとなっているのである。
アキバ同様、あのディズニィーランドもそうしたヴァーチャル世界の総本山のようなところである。そこにあるのは視覚的驚きや快楽だけ、想像力が介在する余地のないくらいのものを全部見せて一体何になるのだろうか!?我々の子供の時の絵本の方が余ほどイメージを膨らませることができるだろう。
このような、アニメ、携帯、パソコン、CGを使った映像、テーマパーク等のヴァーチャル文化の大なる罪を昨今特別に感じるのである。先ずそれらは、営利主義ベースの刹那的、快楽的で終始。何某かのヒントだけを与え、あとは当人の想像力や思考や感覚に委ねる、そういう過程で知性や感受性を練磨させるという文化本来の機能を予め失ったものである。
再三言うように、それでなくともこの国は商業主義、マスメディアの世論誘導、情報操作に乗せられやすい国民性、昨今の軽薄愚俗極まりない「サムライジャパン」なるもののバカ騒ぎには閉口させられるが、この「平成エライヤッチャ!騒ぎ」は「弔いジャパン」とでもいうべき政治・経済の閉塞状況を隠蔽するのは好都合だろう。
このような、増幅された「受身」の姿勢は、往々にして主体的な感受性も創造力も覚醒した批判精神もない人格を作り上げていく。そしてそれはやがて≪ヴァーチャルな世界と現実とを識別できない「ヴァーチャル人格」≫に繋がるのである。
そのヴァーチャル人格同士が互いに「理解ある」コミニュケーションを得ると妙なリアリティーあるコミニュティーができあがる。それは時に冒頭述べたような「裏社会」を作る。前述の「共犯者募集」の闇サイトも、「オレオレ詐欺」も根はこのようなものにあると思えるのである。オレオレ詐欺というのは、なまじ「現実を知っている」犯罪者には考えつかない発想である。いわば「夢想の所産」。ところが時として現実の方が夢想に対応できない場合がある。まさか孫子の名を語ってそのようなことをするなど考えられもしない。ところが、たまたまその夢想がまんまとうまくいった。その「虚」を突いた犯罪と言える。
ともかく、その現実には通用しない屈折した人格や歪んだ価値観が、逆に現実の方を不当に思うようになり、現実を憎悪し、ますます自己中心の幻視的「オタク人格」が形成されていき、極端な場合冒頭のような事件に結びついたりするのである。気に食わなければ「殺人予告」すらする。
何よりも、ヴァーチャル世界と因果関係を持つ事件についての法的対蹠やネット規制の動きは現実のものとなっているのである。