よく聞く言葉に「絵画は技術ではない、内容だ」というのがある。絵画芸術の最終的な価値の所在がそこにあるべきことに異存はないが、それにはいつも何某かのいかがわししさを感じる。そう言う者の作品に限って言うほどの内容があるとは思えないものが多いのである。それは、その「内容」について、実行を伴う明確な認識なり、定義づけがなされないまま何某かの「免責効果」を期待して言葉だけが安易に使われると言う印象である。それは、「内容」とは相応の技術をもって担保されるものである、という認識の欠如に他ならない。

 その内容を、造形的な面白さ、感動の素直な表現、自由さ、純粋さ、楽しさ、テーマやモティーフのメッセージ性、ユニークさ、色彩感覚、絵作りの妙等、何でも良い何かとしよう。
 それらの造形性が、ある程度客観的価値を持って、誰の目にも明らかな評価対象となるには、相応の技術的裏づけがなければならない。その技術が取敢えずアカデミックなそれとは性質が違うということだけである。(底辺では繋がっているのだが)自分が「ここを評価してもらいたい」といくら思っても、そうは問屋がおろさない。絵画的に、効果的に伝えようとする時はなおさらである。
 造形性の「甘さ」や不自然さ、いろいろな意味のバランスの悪さ、デッサンやヴァルールの狂いがあった場合、これらの欠点が先ず目につき、そこから先に話は進まない。つまり、その芸術としてのメッセージ性をストレートに感じさせるためには、先ず絵画的に安定していること、観る者が安心して観られることが必要であり、それは正に「技術」の問題なのだ。

 判りやすい例として、私はしばしばグランマ・モーゼス、アンリルソーなどの「ナイーフ」派やゴッホ、山下清などの例を持ち出すが、彼らは一見本能だけで描いているようだが、実は彼らの価値はその意味の「技術」にある。つまり、彼らの作品がそう言うものとして評価されるのは、十分に「絵画的価値」に達しているからこそのもの。それはただ破綻がないと言うだけでなく、その造形性は彼らの世界を伝達するに驚くべき「効果」を示しているのだ。しかもその「絵画的効果」が無理なく嫌味でない。
 よく「絵作り」に懲りすぎたり、工芸品的になったりしているものも見受けるがこれは行き過ぎ。スタイルの借用だけは論外。これもバランスの問題だ。

 言い換えると絵画的価値に達していないものは「絵画芸術」と言う場で、レベルで、その色彩感覚、造形感覚、自由さ、個性等が評価されるということはない。通常はその絵画的価値を獲得するのは相応の努力が必要だが、彼らは無意識の裡にそれを獲得している。ゆえに「天才」と呼ばれるのである。
 繰り返すが、古典絵画は言うに及ばず、そのような技術を優先させる傾向の絵でなくても、古今東西、美術史に残る名作には、必ず技術的裏付けがある。押し付けがましさや独りよがりは通用しない。確かに技術の「ウマサ」がその足を引っ張るということはあるが、それは創造者の能力や資質の問題であり、それをいうなら技術の「ヘタサ」はそれ以上足を引っ張るのである。

  仮にその内容が受け取る側の資質、嗜好、感受性等の「評価」の問題であるとするなら、個人差あるこの問題は創造者の意思ではどうにもならないが、もしそうだとすると逆に「技術」を予め評価対象からはずしてかかるということも出来ないはずである。なぜなら「技術」とはハッキリした評価の指標であり、事実それにより多くの作品が評価されているからである。
 
  ところで、技術を高める努力を創造者は何のためにするのか?技術そのものが自己目的にあろうはずがない。当然「内容」を高めたいからである。つまり、練磨され、高められた技術はその突き抜けた先には、練磨され、高められた「内容」を生み出す。
 リアリズムとはそういう形で「内容を醸成させる」もので「直接主張する」ものではない。そういう造形思想なのである。これに前述したような意味や「フォーブ」や「エモーショナル」な概念を持ち出す方が筋違いというものだ。そういうものとして絵画芸術としての一時代を画し、今日なおその意義が行き続ける造形傾向なのである。もしアカデミックなスキルを否定するなら、印象派前の総ての美術史を否定しなければなるまい。当たり前のことであるが、芸術は時代を超えて生き続けるもの、時代性の支配を受けると言う意味なら何某かの類型や流行りものの方だろう。
 ここでも「絵画論1」の「りんご一つ…」を思う。