今回の「フェルメール」には≪小路≫という一応風景画に区分されるものが出品されているが、これは風景画というより「風俗画」というべきで、純然たるものはやはり≪デルフトの眺望≫だろう。即ちフェルメールの風景画はこれ一点である。
これは私個人は大変興味ある作品。それは、水平線を低く据えて画面の三分の二を空で大きく取るという、オランダ風景画の一類型を示したもので、この作品が描かれた1660年近辺にはヤーコブ・ファン・ロイスダールなどの風景画家たちが盛んにこのようなパターンの作品を描いていたが、風景画家とはいえないフェルメールも風景はこうした類型を踏襲していたと解釈できる。
この画法のメリットは、先ず水平線、即ち絵画空間の重心が低いところにあることにより画面が安定するということ、空や雲を大きく取るということにより自然の大らかさ、奥行き、広がりなどを感じさせる効果があるということである。この巨視的な画法の元々の起源は大ピーテル・ブリューゲルなど「フランドル」の「世界風景」と呼ばれるものにみるべきで、近景を茶、中景を緑、遠景を青という「色彩遠近法」(印象派の「大気遠近法」と比称される)とともにオランダに伝えられた。というより独立した絵画としての「風景画」自体が伝えられたというべきだろう。
「世界風景」は水平線(地平線)を低く捉えるのもあるが、やや鳥瞰図的であることにより画面空間ではむしろ水平線は上のほうにあるものもあるが、「オランダ」ではそれが「鳥の目」ではなく「人間の目」になることにより画面空間でも下のほうになる。
この画法は画家の造形感覚を心地よく刺激する魅力のあるもので、オランダではヨンキント、他にブーダン、シスレー、モネ、ピサロ、ルノワールなど印象派の画家たちも軒並み描いているし、ゴッホも「カラス舞う麦畑」、「星月夜」等幾つかの作品におそらく無意識のうちのこの伝統が反映されていたのではないかと推測される作品を残している。特に≪青い空の下の麦畑≫は半分以上が空である。
これはオランダの地形そのものが平坦で見晴らしが利くという「環境論」でも語られるが、その環境論で言えば、四辺を海に囲まれ、山地山脈で視界を遮られ、広大な平地が無いという本邦では、そういう風景画が少ないというのもうなずける。
ともかくこの画法の最大の問題点は言うまでもなく空や雲の処理である。これが的確でないとたちまち間延びしたどうしようもない画面になってしまう。しかも空は透明で、雲は文字通り雲をつかむようなもので立体感はあるが重さはない。
この難しさもこの画法が今日風景画の類型として定着しないことも原因かもしれない。
さて上掲拙作はこの夏取材したものの描きはじめのものであるが、件のオランダ絵画ほどでないにしても、縷々のべた空を大きく取るという画法を意識したものである。雲は将来、重さは無いが立体感はある、雲の処理如何で遠近感、広がりが決定されるという事を認識の上で「仕込み」をしている。そういう意味で緊張感を感じて描いている。