自慢話にもならないが、私は美術館等で大々的にやる「〇〇展」というのはあまり観に行ったことがない。最近では3年ほど前の練馬美術館で「佐伯祐三展」に画友二人と一諸したが、他ならぬ佐伯だし、この美術館は拙宅の近所で自転車で行けるとこだったので久しぶり行ったのである。
 その前はサントリー美術館の「ブルガリアイコン展」、東京駅ステーションギャラリーの「17世紀ヨロッパ風景画展」だがもう10年以上経ってるだろう。この二つはどうしても見たいと思ったのである。特に前者については、ブルガリア、ソフィアのアレキサンダーネフスキー寺院の地下で見たのと何年かぶりで再開した思いで感激した。
 因みに上野の公募団体展も何人かから招待状をもらうのだが、どんな絵か大体わかってるし、団体展自体は自分が敬遠したものだし、申し訳ないが行ったことがない。

 どうしてこうなったかというのにはいくつか理由がある。一つは単に面倒くさい。もう一つは昔の「展覧会トラウマ」がある。ミロのヴィーナスが来た時だ。西洋美術館の周りには何重もの列ができ、何時間も待たされた挙句、やっとたどり着いたヴィーナズも人垣ができ、コドモの身ではまともに観ることもできない。それに「止まらないでください!」なんて声でせっつかれるし、疲労感しか残らなかった。
 因みに後年「ミロのヴィーナス」はルーブルで再会することになるが、このルーブルもピラミッドの正規の入り口は大変混雑している。今はどうなっているかわからないが、私が行った時、空いてるところから入れる「ウラ技」があると教えてもらい、その通りにして「報復」したことがある。

 こうした思いは他でもある。私は絵にできるだけ近づき、支持体の様子とか微妙なマティエールとか、色の重ね具合とかニスかグラシかを見たいのだが、あまり近づけないようになってるし、無理に近づくと警備員が何か言いたそうな目でこっちをジロッと観る。つまり人は多いし、行っても本来の目的をゆっくり遂げることはできない。
 因みに今回の「コロー展」にすら行かなかった。既に現物はルーブル等で観てるし、コローだけは雑然とした雰囲気でみたくなかったのもである。

 次に、そういう展覧会は正規の開催前に大抵「内覧会」というのがあって、関係者や報道機関、学研や評論畑等の招待者だけに特別の観覧機会が与えられる。勿論タダである。私の同窓筋には何人かいる。学芸員とか主催者側の人間もいる。そういうのがタダでゆっくり観てるのに金払って混雑覚悟で行く気にはなれないのである。ただしこれは理由にもならないケチな根性であることは認める。

 ところで今般、ある伝からその内覧会に行く機会を得た。「フェルメール展」である。一般公開後の夜6時から、招待券だしカタログも無料。行かない手はない。ところがどっこい、混雑は相変わらずだった。しかもフェルメールは7点のみ。あとはホーホらデルフトの作家達。そのフェルメールも、申し訳ないが、B、Cクラスのものばかり。あんなもんなら俺でも描ける!
 「絵画芸術」というメインの絵は「作品保護のため出品不可となりました」と来た!「絵画芸術」とは誰でも知ってるフェルメールの代表作の一つだ。例によって左上から光がさす室内の構図でモデルを描いている画家の後姿の絵だ。「作品保護のため…」なんていうのが言い訳になるのか?!第一そんなことは最初からわかったことだろう?

 実はこの種の、メインが一点程度で、あとは寄せ集めと言う展覧会は今までもあった。一点だけで展覧会がもつというのはそれこそ「ミロのヴィーナス」や「モナリザ」クラスだろう。メインでいうなら、「落穂拾い」、「第九の波濤」、「忘れえぬ(見知らぬ)人」とか。今回のコロー展で言えば「モルトフォンテーヌの想い出」ということだろう。これはこの種の展覧会の一パターンなのである。私個人はそのメインより他のものからインパクトを受けることの方が多かったが。それでも「〇〇来る!」と銘打って大々的に宣伝すると「善良な市民」は列を作る。
 しかしメインが来なかったというのは私の知る限りない。たった7点だし、これで「フェルメール展」を名乗れるだろうか?!フェルメールは作品の絶対数が少ないことを考慮して、「フェルメールとデルフトの画家たち」というような展覧名なら納得する。文化芸術に「上げ底」はよくない。
 いろいろ複雑な思いあったが、ともかく「デルフト派」の技法は予想していた通りだったし、得るものはあった。