以前からこのカテゴで出くわしたいくつかのブログについて感じていたことがある。
 それは、絵画芸術を語るに勿論既成の言語を使う必要は無いが、使う以上はその分野で広く『公認され』、流通しているものを、出来るだけその正確な意味に添いに、かつ言いっ放しでない、客観性のある言語を使用すべきということである。何を言っているのかサッパリわからなかったり、その人の知識レベルを疑われる様なものでは何より本人が一番損をすることになるのだが、とりあえずは、誤謬、歪曲、矮小化の横行は当ブログの立場で看過できないものである。

 以前、ああ言えばこう言う式の、ことごとく反対意見を言うことでしか自己主張を出来ないような御仁がいた。作品からも発言内容からも真正面から、腰を据えて、深く造形に取り組んだと言うものは感じなかったが、例えば大所高所の造形の基礎が全くできていない者に枝葉末節なテクニックを伝授したり、明らかに「検索知識」程度のペダンティックな発言、それも時に誤ったものを繰り返すとか、それにより逆に自らの浅さを露呈し、必然「第一線」からのリタイアを余儀なくされたようだが、なお「類友」風情の者が今なお、ウソ八百、デタラメに近い情報を垂れ流し、絵画芸術や画家を貶め、賤しめている事態はコミニュティーの不幸というべきである。
 かかる状況ある中、私がここで使っている言語について、それはこのような定義、意味のもであり、私が目指す絵画世界はこのようなものであると言うことを表明しておく必要を感じる次第である。

 以下は多年にわたり、私が自ら描くものとして、また一美術史学徒として学び、体得したものを根拠に、冒頭述べたような意味で、使われている言葉も内容も客観性のあるものと信ずるものによりまとめたものである。ただしもとより絵画は諸々の不合理を宿す人間たるものの創造行為であるので、一筋縄でいくはずがなく、言語や各区分も便宜上のものであり、これで100%絵画を語り尽せるなどとは言うつもりでないことを申し添えておく。

 先ず美術史的「有史」以来の絵画とは、神話やキリスト教的世界観、権力者の威厳や、女性の美しさ,自然の息吹や生命感、、人間の喜怒哀楽や、個人の内面を「表現する」ものであり、色や形はその表現の「手段」として位置づけられた。勿論これは今日においても芸術の主要な一分野である。
 こうしたメッセージ性がリアリズムをベースにして込められているもの、かつフォルムや色彩が印象派前の傾向に沿ったものを≪古典主義、…系列、…派、…傾向…画法≫などと呼ぶ。
 そこで求められるものは厳格な構成、フォルム、トーン、立体感、質感、量感、ヴァルール等、いわゆるアカデミックな造形要素の的確な把握である。この中にとりあえず「色彩」はない。即ち、色彩は固有色で、無彩色を媒介として繋がりのあるトーンの中に位置づけれれた。

 その証左として、前記アカデミズムの合理的訓練方法においては今日なお「石膏デッサン」が多くの教育訓練の場や美大入試等で採用されているがこれには当然色彩はない。また古典の下絵画法にグリザイユ、カマイユ、ヴェルダイユなどと言うものがあるが、これも当初段階で色彩は除外されることになる。
 つまり色彩はそれ自体非常に厄介なものであるので、基礎的なレベルにおいては一応別扱いしておこうということだ。
 因みに上記のうち立体感と量感がしばし混同されるがこれは本来別物である。例えば中が空洞の人形にも立体感はある。量感とは中にものが「詰まっている」感じ、重さ、ボリューム、塊感等次元が一歩進んだ概念である。その立体感すら不満足な人物画をよくみかけるが。

 ともかくこの古典主義系列の最大の難関は、色彩、絵作りではごまかしが利かない、総ての造形要素について欠陥があってはならないということである。ヴァルールやデッサンの狂いは致命的、一部にでもあからさまな破調があると他がどんなにうまくいってもダメ。その意味では「オール オア ナッシング」である。この傾向の、厳格なフォルム、暗めの色彩を避け、もっと自由な表現を、という事でこれを避ける勢力は今日洋の東西を問わず圧倒的に多いが、その難渋さが大きな要因の一つでもあることも疑いない。
 因みに私の目指すところも、縷々述べた趣旨から≪リアリズムをベースにしたイマジネーションの展開≫を志向する立場なのでこの古典主義系列に分類されるだろう。

  (つづく)