筆者作 油彩制作途中 F10(画像削除)
だんだん仕上がりの形が見えてきた。実は正念場はこれからである。
コローの一つの魅力とは総てを描き切ってないところにあると思う。絵画的価値のエキスだけでさらりと仕上げているのだ。
これは「造形的余裕」ともいうべきものろうであろうが、その余裕とは生来の造形資質と練磨された技術から生み出されるもので、これが見るものに息苦しさの無い快感を与えるのであろう。
古今東西「リアリズム」に類する絵画は数多あるが、いかにも見るものの「視覚的驚き」を目論んだような、『子供っぽい』意図だけが目につき、精一杯で、背伸びすら感じ、その余裕の無さが逆に器量の限界を示している、と言うような作品は絵画本来の機能からして「失敗作」と言えよう。造形的修練の存否は絵の「強さ」が違ってくる。リアリズムに徹するのもよいがやはり「骨太」でなければならない。
「10」ある力を「10」出すというのはスポーツの世界。絵画は「8」ぐらいがよい。しかしそのためには「12」努力しなければならない。日頃そう言い聞かせている。
ところで長いこと自分にあった良いモティーフを探して、時には海外にまであっちこっち歩き回った。今般近くの公園にそういうモティーフを見出したのは「チルチル・ミチル」の心境である。『青い鳥』と言えばこの公園には本当に青い鳥が来る。
日曜ともなればアマチュアカメラマンがズラリ放列を作って、いかにも高そうなカメラに望遠レンズをつけて、何時間もその鳥の飛来を待っている。必ず決まったところに来るから面白い。
「かわせみ」だ。別名「翡翠」(ヒスイ)というだけあって美しい青をしている。上の作品にそれを描き加えた。私も高価なセルリアンブルーを使おう。本屋の積まれた本の上に檸檬を置いてくるような、ささやかな「気障」な仕掛けってところかな~♪
だんだん仕上がりの形が見えてきた。実は正念場はこれからである。
コローの一つの魅力とは総てを描き切ってないところにあると思う。絵画的価値のエキスだけでさらりと仕上げているのだ。
これは「造形的余裕」ともいうべきものろうであろうが、その余裕とは生来の造形資質と練磨された技術から生み出されるもので、これが見るものに息苦しさの無い快感を与えるのであろう。
古今東西「リアリズム」に類する絵画は数多あるが、いかにも見るものの「視覚的驚き」を目論んだような、『子供っぽい』意図だけが目につき、精一杯で、背伸びすら感じ、その余裕の無さが逆に器量の限界を示している、と言うような作品は絵画本来の機能からして「失敗作」と言えよう。造形的修練の存否は絵の「強さ」が違ってくる。リアリズムに徹するのもよいがやはり「骨太」でなければならない。
「10」ある力を「10」出すというのはスポーツの世界。絵画は「8」ぐらいがよい。しかしそのためには「12」努力しなければならない。日頃そう言い聞かせている。
ところで長いこと自分にあった良いモティーフを探して、時には海外にまであっちこっち歩き回った。今般近くの公園にそういうモティーフを見出したのは「チルチル・ミチル」の心境である。『青い鳥』と言えばこの公園には本当に青い鳥が来る。
日曜ともなればアマチュアカメラマンがズラリ放列を作って、いかにも高そうなカメラに望遠レンズをつけて、何時間もその鳥の飛来を待っている。必ず決まったところに来るから面白い。
「かわせみ」だ。別名「翡翠」(ヒスイ)というだけあって美しい青をしている。上の作品にそれを描き加えた。私も高価なセルリアンブルーを使おう。本屋の積まれた本の上に檸檬を置いてくるような、ささやかな「気障」な仕掛けってところかな~♪