Ψ 上より パソコン呼び出し画面の佐伯祐三模写作(画像削除)
佐伯祐三の芸術的意義については当書庫においても幾つか書いた。
http://blogs.yahoo.co.jp/asyuranote/13225804.html
http://blogs.yahoo.co.jp/asyuranote/17726193.html
模写
http://blogs.yahoo.co.jp/asyuranote/54269125.html
即ち佐伯芸術は美術史的にも造形的にもそのような価値を持ったものとしてひとたびは特定時制・次元での評価を得たのであるが、私の持論であり真理と信ずるものに「価値ある芸術とは時空(時代・世界)を超えて普遍的なものである」というのがある。
つまり佐伯の価値はそういうものにとどまらず今日にもなお生きているということだ。
私は佐伯の模写を何点かしたが、昨今の美術潮流にはいささか飽食感を感じている折、模写ではあるが、その「新鮮」な造形世界に改めてを驚きを感じたのである。それは本来はその深い造形性に係るものであるが、それとは別に極めて日常的なことにもそれは現れる。
試みに模写した佐伯を、居間や廊下に飾ってみたが、日頃猫たちに占領され、見る影なく散らかったそれらが、たちどころに洒落た、モダンな空間に変身、猫たちさえ違って見えた。佐伯は例えば都心の「お洒落な町」の粋なレストランなんかに飾っても他の装飾品は寄せ付けないだろう。これは十分に一級品のインテリアとしての力だ。このような「環境への支配力」と言う意味で同じ経験をしたのがコローである。なんでもない、さりげない絵だが私が一生懸命描いたものより遥かに周辺の空気を変える力を持っていたのはその後のよい戒となった。
今テクノロジーや商業主義に骨の髄まで漬かり込んだ「コンテンポラリー・アート」が氾濫している。あるいは、ちょっと間違ったら「チョー危険」な「アキバ系オタク文化」っぽい、私の言う「バブル・アート」のようなものが幅を利かしているようだが、一体どれほどのものが美術史上はもとより市民社会の中でも、否それ以前に個々人の創造に係るモテイベーションやポリシーとして生き残るだろうか?
そもそも「コンテンポラリー」の意味をどれほど分かってやっているのだろうか?ルネッサンスも印象派も当世では「現代アート」であったのである。
かつて一世を風靡した多色刷り版画は倒産画廊の倉庫で眠っているではないか。いまどきそういうものを飾っていたら「ダサイ!」と言われるだろう。
かつて各時代に社会風俗としての「流行りもの」があった。音楽でいうと「ロカビリー」や「グループサウンズ」、「カレッジフォーク」…今その画像など見たりするとこっちが恥ずかしくなるくらいだ。あの格好だけの内容のないものによくみんなキャーキャーいったものだ。因みににフォークソングなんてものは当時から胡散臭さを感じ大嫌いで、特に「神田川」なんていうのは虫唾が走った。
絵画もそうだ。必ず流行りものがある。それを追い、功成って、文化施設などに買い上げられた今残っているそうものを見るとなんとダサイこと!
≪新しいものは「新しい」故に時間が経つと古くなる。≫目指すべきは、目先の「新旧」で語れないものであることは間違いない。
佐伯祐三の芸術的意義については当書庫においても幾つか書いた。
http://blogs.yahoo.co.jp/asyuranote/13225804.html
http://blogs.yahoo.co.jp/asyuranote/17726193.html
模写
http://blogs.yahoo.co.jp/asyuranote/54269125.html
即ち佐伯芸術は美術史的にも造形的にもそのような価値を持ったものとしてひとたびは特定時制・次元での評価を得たのであるが、私の持論であり真理と信ずるものに「価値ある芸術とは時空(時代・世界)を超えて普遍的なものである」というのがある。
つまり佐伯の価値はそういうものにとどまらず今日にもなお生きているということだ。
私は佐伯の模写を何点かしたが、昨今の美術潮流にはいささか飽食感を感じている折、模写ではあるが、その「新鮮」な造形世界に改めてを驚きを感じたのである。それは本来はその深い造形性に係るものであるが、それとは別に極めて日常的なことにもそれは現れる。
試みに模写した佐伯を、居間や廊下に飾ってみたが、日頃猫たちに占領され、見る影なく散らかったそれらが、たちどころに洒落た、モダンな空間に変身、猫たちさえ違って見えた。佐伯は例えば都心の「お洒落な町」の粋なレストランなんかに飾っても他の装飾品は寄せ付けないだろう。これは十分に一級品のインテリアとしての力だ。このような「環境への支配力」と言う意味で同じ経験をしたのがコローである。なんでもない、さりげない絵だが私が一生懸命描いたものより遥かに周辺の空気を変える力を持っていたのはその後のよい戒となった。
今テクノロジーや商業主義に骨の髄まで漬かり込んだ「コンテンポラリー・アート」が氾濫している。あるいは、ちょっと間違ったら「チョー危険」な「アキバ系オタク文化」っぽい、私の言う「バブル・アート」のようなものが幅を利かしているようだが、一体どれほどのものが美術史上はもとより市民社会の中でも、否それ以前に個々人の創造に係るモテイベーションやポリシーとして生き残るだろうか?
そもそも「コンテンポラリー」の意味をどれほど分かってやっているのだろうか?ルネッサンスも印象派も当世では「現代アート」であったのである。
かつて一世を風靡した多色刷り版画は倒産画廊の倉庫で眠っているではないか。いまどきそういうものを飾っていたら「ダサイ!」と言われるだろう。
かつて各時代に社会風俗としての「流行りもの」があった。音楽でいうと「ロカビリー」や「グループサウンズ」、「カレッジフォーク」…今その画像など見たりするとこっちが恥ずかしくなるくらいだ。あの格好だけの内容のないものによくみんなキャーキャーいったものだ。因みににフォークソングなんてものは当時から胡散臭さを感じ大嫌いで、特に「神田川」なんていうのは虫唾が走った。
絵画もそうだ。必ず流行りものがある。それを追い、功成って、文化施設などに買い上げられた今残っているそうものを見るとなんとダサイこと!
≪新しいものは「新しい」故に時間が経つと古くなる。≫目指すべきは、目先の「新旧」で語れないものであることは間違いない。