絵画芸術とは「自己表現」であり」自己実現」である。写真や他人の創造物を「上手に」転写することに何の意義があろう。
 冒頭に述べたような現場主義画家が描くものはただのランドスケープではない。川のせせらぎも鳥の声も風の音も季節の息吹も自然の大らかさも全部だ。そのためには空の高さ、透明感、地平の広がり、奥行き、山や木々、水の質・量感等を感じる心、表現できる技術がなければならない。こうした造形的意義は人物も静物も同じだ。それが絵画だ。諸々の能書きはそれから先の話だ。こんなものが一辺の写真の紙焼きやパソコンモニターから得られるはずがない!

 その「自己表現」と自己実現」に加えれば、絵画とは「自己体験」である。「自然や人間を描く」と言う行為を通じて「この世の実態」に触れることができる。大事なのは写真のような「切り取られた結果」ではなく造形的モティベーションという入り口から作品という出口までに詰め込まれたいろいろな「プロセス」である。 エベレストの山頂征服はそのプロセスこそが貴重なのだ。誰がヘリコプターで頂上に降り立ったものを登山家と呼ぶだろうか!そのプロセスの積み重ねそのものが人生の意義というものではないのか?スタンダール流に言えば 「生きた、愛した、描いた」、この世で出会った美しいものを描き、その関わりの中で悔いの無い人生を送れた、と最後に言えるのだ。もっとも「生きた、愛した、≪写した≫」と言えるのも別な意味で幸せな人生だろうが!
 
 ところで誠に忌まわしい話で語るだに気が滅入るが、こうした「当たり前」のことを当たり前に論じた場合、件の「写真描き」の一部に共通した言動が見られる。即ち「偉そうな事いっている、芸術家ぶってる、傲慢だ」云々かんぬんとの、誠に姑息で卑怯な常套句。
 その卑怯さとは、自分達を「どうせ○○である」と予めその限界を認めるてしまう、つまり予防線を張った上のことと連動する。そうすればとりあえず「正道・本質」の側からの批判をかわせる。(つもりでいる)どうせ〇〇なら、正道・本質の世界に口出しするな!しかしこれはやめない。自らの邪道・エセ造形を認知させたいという欲だけはある。

 次にまともに反論できないので搦め手から攻撃する、即ち「正道・本質」を語る者の「資格要件」を問うてくるのだ。
「おまえは何もんだ?プロかアマか?売れているのか?一流か三流か?」云々。そもそもこのような発想の根拠自体が凡俗で軽率なものであり、創造の意義と売れる売れないを同一次元に扱えばあらゆる芸術史は存在できない。全く次元の異なる話だ。あらゆる結果については画家個人の問題だ。大きなお世話というものだ。
 しかしこれを混同させて語れば、勝手にそうだと決め付けてかかっても、とりあえずばアドヴァンテージが得られるということを彼らは知っている。人間社会と芸術の関係がそうなっているからだ。ここまでくると卑劣という他はない!

 他人の評価とは結果的に得られれば嬉しい話だ。しかしこれを創造の指標とし、これを追い求めれば自分を見失う畏れがある。というより他人の評価の中でしか生きられない者は、最初から「個」がないものだ。これは才能以前の資質の問題であろう。資質がなければモティーフは見つけられない。
 冒頭の自己表現、自己実現、自己体験の意義から言えば、「ところで君は何処にいるのかね?」と問われるようなものは一般的に言えば絵画芸術の世界の話ではない。ただの「ヴィジュアル・パフォーマンス」だ。勿論それでも構わないし、それで評価を受けるのは結構なことだ。ただジャンルの違いはわきまえず絵画芸術を貶め賤しめて語るのは迷惑千番! 

 そもそも「写真描き」がそのようなことを言うのは造形の本道を究めたらんと日々努力している「アマ、売れない、三流」絵描きに対して失礼というものだろう。人間の価値を「稼得能力」やその「地位」で計ったり、足元を見て強気に出たり卑屈に出たりするというのは日本人の特徴であるが、その価値観を芸術の世界に導入して語る事自体の恥ずかしさすら気づかない。
 第一それは天に唾する、「自爆テロ」のようなものにならないのかね!

 おわり