過日バルビゾン会展会場で、出品者の紹介で、あるベテラン画家と話し合う機会があった。その際作品や制作風景のスナップ写真を見せてもらったが、100号の大作を現場で描いているのがあった。画材を入れて運ぶらしい、竹で編んだような大きな籠は背負うのだろうか?100号を現場で描いている画家は他にも知っているが、そのいろんな意味のエネルギーたるもの大変なことだ。その「現場主意」たる制作姿勢から相当の実績ある画家と思ったが、その通りだった。
ところで依然としてある方面に「写真を見て描く」ということについての「自己主張」があるらしい。それにはいつも何か「過剰反応」とも思えるような印象を持ってきた。「鰯の頭も信心」、ムクロになるまでそれを信じてやるのもそれなりに「幸福」というものなので「堂々と」やってればよいと思うのであるが、この過剰反応はどこかに後ろめたさやコンプレックスがあることの証左であり、中身も頑迷で潔悪い自己弁明、自己合理化の繰り返し以外の何ものでもなかったが。
彼らに向かって絵画芸術とか創造とか造形することの意義を語るのも空しいので言い方を変えよう。
即ち「写真を見て描くのはよい!」しかし≪写真を見なからでなければ絵が描けないような輩≫は「絵描き」でなく「写真描き」を名乗り給え!二次元平面間の転写作業など自分の目で見て描くよりはるかに簡単なのだ。そうしてINなどの公衆の面前で絵画とか絵描きとか芸術とかに言及するのは止めることだ。それは社会悪というものだ。犯罪的行為というものだ。
「写真を見て描く」ことについては、「写真に描かされる」ことのない、自己のしっかりとした造形性と絵画世界を有しているものが、資料として、取材の効率として、肖像画などの職業的要請としてやむを得ず援用すること等は是認されると繰り返し言ってきている。
しかし造形を真正面から捉える修業期間では写真の転写を教えるところは一つも無い。時代的背景など全く関係ない。数百年前と同じ方法で第一歩から始める。なぜなら造形の本質に係る価値体系そのものは人類誕生以来変わっていないからだ。絵画とは≪「個」が見て、感じ、解釈し、希求するものを「個」の感覚と技術で創造するもの≫である。この辺のところが判ってないから、最低限の、自分の作品と他人の作品の区別もつかない。
「写真描き」が描けば、「書割」のような風景画、「木偶人形」のような人物画、商品イラストのような静物画しかできないのは目に見えている。良くてカラー写真を貼り付けたような軽薄なリアリズムか?
ある画家は船のマストに自分の体を縛り付けて荒れ狂う嵐の海をスケッチした。ある画家はリューマチを畏れず雪景色を写生した。ある画家は死ぬかも知れないという覚悟の下に渡航取材を強行し、その通りになった。ある時代の本邦の画家達はなけなしの財産をはたき、貨物船やシベリア鉄道でかの取材地を目ざし、その芸術的オマージュを実行した。絵画に殉じ、壮烈な討ち死にした先達は数知れない。絵画芸術とは本来そういうものだ。暖かい部屋でせっせと転写作業をするのが絵画だと思ったら大間違いだ。
勿論そんなシビアな側面だけではない。悦びや楽しさもある。「アソビ」も大事な要素だ。しかしひとたびキャンバスに向かったら、純粋に全力をあげて「絵画的価値」を希求し、ウソのない自分を精一杯晒すことだ。こうした意義にアマもプロもない。ベテランも初心者も無い。グランマ・モーゼスやアンリ・ルソーの半生と作品を見ればよい。ゴッホも決して器用な画家ではなかった。絵画芸術とは常に巧拙を問うものではない。その造形姿勢こそが作品の価値を生む。ハッタリやニセモノは必ず化けの皮が剥がれることになる。
ところで依然としてある方面に「写真を見て描く」ということについての「自己主張」があるらしい。それにはいつも何か「過剰反応」とも思えるような印象を持ってきた。「鰯の頭も信心」、ムクロになるまでそれを信じてやるのもそれなりに「幸福」というものなので「堂々と」やってればよいと思うのであるが、この過剰反応はどこかに後ろめたさやコンプレックスがあることの証左であり、中身も頑迷で潔悪い自己弁明、自己合理化の繰り返し以外の何ものでもなかったが。
彼らに向かって絵画芸術とか創造とか造形することの意義を語るのも空しいので言い方を変えよう。
即ち「写真を見て描くのはよい!」しかし≪写真を見なからでなければ絵が描けないような輩≫は「絵描き」でなく「写真描き」を名乗り給え!二次元平面間の転写作業など自分の目で見て描くよりはるかに簡単なのだ。そうしてINなどの公衆の面前で絵画とか絵描きとか芸術とかに言及するのは止めることだ。それは社会悪というものだ。犯罪的行為というものだ。
「写真を見て描く」ことについては、「写真に描かされる」ことのない、自己のしっかりとした造形性と絵画世界を有しているものが、資料として、取材の効率として、肖像画などの職業的要請としてやむを得ず援用すること等は是認されると繰り返し言ってきている。
しかし造形を真正面から捉える修業期間では写真の転写を教えるところは一つも無い。時代的背景など全く関係ない。数百年前と同じ方法で第一歩から始める。なぜなら造形の本質に係る価値体系そのものは人類誕生以来変わっていないからだ。絵画とは≪「個」が見て、感じ、解釈し、希求するものを「個」の感覚と技術で創造するもの≫である。この辺のところが判ってないから、最低限の、自分の作品と他人の作品の区別もつかない。
「写真描き」が描けば、「書割」のような風景画、「木偶人形」のような人物画、商品イラストのような静物画しかできないのは目に見えている。良くてカラー写真を貼り付けたような軽薄なリアリズムか?
ある画家は船のマストに自分の体を縛り付けて荒れ狂う嵐の海をスケッチした。ある画家はリューマチを畏れず雪景色を写生した。ある画家は死ぬかも知れないという覚悟の下に渡航取材を強行し、その通りになった。ある時代の本邦の画家達はなけなしの財産をはたき、貨物船やシベリア鉄道でかの取材地を目ざし、その芸術的オマージュを実行した。絵画に殉じ、壮烈な討ち死にした先達は数知れない。絵画芸術とは本来そういうものだ。暖かい部屋でせっせと転写作業をするのが絵画だと思ったら大間違いだ。
勿論そんなシビアな側面だけではない。悦びや楽しさもある。「アソビ」も大事な要素だ。しかしひとたびキャンバスに向かったら、純粋に全力をあげて「絵画的価値」を希求し、ウソのない自分を精一杯晒すことだ。こうした意義にアマもプロもない。ベテランも初心者も無い。グランマ・モーゼスやアンリ・ルソーの半生と作品を見ればよい。ゴッホも決して器用な画家ではなかった。絵画芸術とは常に巧拙を問うものではない。その造形姿勢こそが作品の価値を生む。ハッタリやニセモノは必ず化けの皮が剥がれることになる。