Ψ YAHOO掲示板「どうしたらうまくかけるの」より転載
この辺の話になると、創造者や受け手のスタンス、ポジションによってかなり違ってきて、結論めいたことを得るのはなかなか難しいように思います。私の意見も結局は私の造形思想や資質や嗜好からくる作品傾向から言ってるわけですが、絵画が純粋で何某かの真実を希求するものであるべきということは一貫したものと思います。
さてそのスタンス等ですが、日常的な例ですが、人は何かのことで本当に落ち込んだ時に明るく楽しいもので元気づけられるでしょうか?むしろ逆に自分と同じように落ち込んだ人を見ると「ああ、自分だけではないんだ」と勇気づけられるのではないか。しかしそれも行き過ぎると「他人の不幸は密の味」なんて賎しいものになる惧れもありますし、「明るさ」があまりに刹那的、快楽的なものは一時凌ぎのゴマカシにしかならないのと同様、これも程度ものという事になると思います。
芸術にも同じようなことが言えます。本邦の芸術について言えば、生存への不安と混沌に満ちた、年号で言えば大正から昭和中頃までにかけての芸術には、佐伯の暗く突き刺すような絵もそうですが、文学、演劇などにも数多の暗くシビアな現実描写が見られます。世界が未だ貧しい時代、映画ではイタリアン・リアリズムに代表されるシリアスな表現が説得力を持ちました。いずれも緊張感のある、質的レベルも高い。こういう場合、明るい楽しいものは救いになる力になり得ない。
つまりこれらのことは同時代の人間が現実をどう捉えるか、現実がどう関わってくるか、その捉え方の質やレベルによると思います。
今の時代、私は暗い希望のない時代と思います。外にあっては戦争や人種・宗教紛争、地球規模の環境問題、内にあっては自殺者が年間何万人、うつ病が何万人、ホームレス、インターネット難民が何人なんて言う国をして明るい時代とか美しい国とかいえるか?したがって芸術が目指すべきも、もっと深刻でシリアスなテーマがあるはず。ところが右を見ても左を見てもあまりに「オチャラケ」が多すぎる。
昔はゴールデンタイムの映画でも「モンパルナスの灯」とか「太陽がいっぱい」とか「道」とか味わいのある、考えさせられるヨーロッパ映画があった。女優もブリジット・バルドーとかジーナ・ロロブリジータとか、小学生の私でもでもムラムラ来るような…そんなことはどうでもよいですが、今はアメリカ映画一辺倒、それも身勝手な「自由と正義の担い手」たる「世界の警察」の独善的世界支配のプロパガンダのような、勧善懲悪の「筋肉バカ」の活劇ばかり。この国の人間を「バカ」のままにしておきたいというような陰謀すら感じます。
しかし一方で、物質は豊富、暮らしは便利、享楽的マスコミ文化情報は氾濫、こんな明るい時代はないと感じてる人種がいる事も事実。これもスタンスです。
時代と創造の関係ですが、人は否応なしに時間と空間、たて横の座標の中でこの時代に位置づけられる存在ですので、創造も時代を何某か反映したものとなるというのは必然の事ですが、その「反映すること」と時代に「迎合する事」は本質的に違うものと思います。
それから生活との関連ですが、これは画家自身が一番直面されている事で否応なく対応させられることです。しかしどんな苦しくてもやる人は必ずやります。第三者が殊更それを創造と関連させて語るのは、かえってその創造者の芸術の本質を見誤ることになる思います。
等々を考え合わせると究極的には創造者本人の問題、創造の意義や目的は「個」に帰着するのではないかと思います。
この辺の話になると、創造者や受け手のスタンス、ポジションによってかなり違ってきて、結論めいたことを得るのはなかなか難しいように思います。私の意見も結局は私の造形思想や資質や嗜好からくる作品傾向から言ってるわけですが、絵画が純粋で何某かの真実を希求するものであるべきということは一貫したものと思います。
さてそのスタンス等ですが、日常的な例ですが、人は何かのことで本当に落ち込んだ時に明るく楽しいもので元気づけられるでしょうか?むしろ逆に自分と同じように落ち込んだ人を見ると「ああ、自分だけではないんだ」と勇気づけられるのではないか。しかしそれも行き過ぎると「他人の不幸は密の味」なんて賎しいものになる惧れもありますし、「明るさ」があまりに刹那的、快楽的なものは一時凌ぎのゴマカシにしかならないのと同様、これも程度ものという事になると思います。
芸術にも同じようなことが言えます。本邦の芸術について言えば、生存への不安と混沌に満ちた、年号で言えば大正から昭和中頃までにかけての芸術には、佐伯の暗く突き刺すような絵もそうですが、文学、演劇などにも数多の暗くシビアな現実描写が見られます。世界が未だ貧しい時代、映画ではイタリアン・リアリズムに代表されるシリアスな表現が説得力を持ちました。いずれも緊張感のある、質的レベルも高い。こういう場合、明るい楽しいものは救いになる力になり得ない。
つまりこれらのことは同時代の人間が現実をどう捉えるか、現実がどう関わってくるか、その捉え方の質やレベルによると思います。
今の時代、私は暗い希望のない時代と思います。外にあっては戦争や人種・宗教紛争、地球規模の環境問題、内にあっては自殺者が年間何万人、うつ病が何万人、ホームレス、インターネット難民が何人なんて言う国をして明るい時代とか美しい国とかいえるか?したがって芸術が目指すべきも、もっと深刻でシリアスなテーマがあるはず。ところが右を見ても左を見てもあまりに「オチャラケ」が多すぎる。
昔はゴールデンタイムの映画でも「モンパルナスの灯」とか「太陽がいっぱい」とか「道」とか味わいのある、考えさせられるヨーロッパ映画があった。女優もブリジット・バルドーとかジーナ・ロロブリジータとか、小学生の私でもでもムラムラ来るような…そんなことはどうでもよいですが、今はアメリカ映画一辺倒、それも身勝手な「自由と正義の担い手」たる「世界の警察」の独善的世界支配のプロパガンダのような、勧善懲悪の「筋肉バカ」の活劇ばかり。この国の人間を「バカ」のままにしておきたいというような陰謀すら感じます。
しかし一方で、物質は豊富、暮らしは便利、享楽的マスコミ文化情報は氾濫、こんな明るい時代はないと感じてる人種がいる事も事実。これもスタンスです。
時代と創造の関係ですが、人は否応なしに時間と空間、たて横の座標の中でこの時代に位置づけられる存在ですので、創造も時代を何某か反映したものとなるというのは必然の事ですが、その「反映すること」と時代に「迎合する事」は本質的に違うものと思います。
それから生活との関連ですが、これは画家自身が一番直面されている事で否応なく対応させられることです。しかしどんな苦しくてもやる人は必ずやります。第三者が殊更それを創造と関連させて語るのは、かえってその創造者の芸術の本質を見誤ることになる思います。
等々を考え合わせると究極的には創造者本人の問題、創造の意義や目的は「個」に帰着するのではないかと思います。