佐伯祐三の芸術性や造形的意義は縷縷述べたので割愛するが、当初の画家仲間からは決して手ばな離しでの評価を得たわけではない。むしろ否定的とさえ言える。これは想像だが、どうもそのあまりに奔放な筆捌きや暗鬱で混濁する色彩が「乱暴」で、造形的思慮や分別を欠き過ぎていて、地道な絵作りに苦労している者には「そりゃねーぜ!」と映じたからではないだろうか?早い話が「手抜き」に見えたのかもしれない。
それは、当時明治以来のアカデミズムを批判する立場の前衛的画家にあってさえも、川端画学校→美校という一応のアカデミックな修行過程を経ている画家が多く居り(佐伯自身もそうであるが)、その画家たちが自分たちが踏襲してきた構成からデッサン、配色等の「造形的手続き」に照らし、その逸脱ぶりを過ぎたるは及ばざるが如しとして感じるのはあり得ることである。
そういう意味ではヴラマンクの「このアカデミズム!」という一撃は佐伯自身にもあったそれを逆に象徴する言葉とさえ感じる。
反面佐伯の絵は、戦争や結核などの業病で常に生存の不安に晒されていた当時の人心、とりわけ文学者などの眼には新鮮な驚きと感動を持って受け入れられたようだ。
ともかくその佐伯芸術の造形的真髄を探るにはそれがどのような「手続き」で出来ているかを「追体験」するのが一番であろう。今まで「佐伯風」のオリジナルを描いてみたり、佐伯独自の手製キャンバスを作ったりはしてきたが佐伯そのものを模写したことはなかった。それはいろいろ理由はあるが先ずそれが可能であるかどうか疑問があったからである。つまり模写というのは理屈を言えば古典になればなるほどやり易い。なぜならそれに至る造形的手続きは決まったことなのでそれに従い、現象面を丁寧に追えばほぼ同じものができるはずだからだ。(繰り返すがこれは理屈で実際は難しいことだが)ところが印象派以降となるとその模写のアカデミックな意義は薄れ、その代わり造形性、表現性、精神性等においてもある程度把握、再現しなければならないという問題が生じてくる。
そういう意味を佐伯の絵でいうと、現象面の描写より、その雰囲気、勢い、全体の絵作り、マティエールそれも下地からなど、いろいろ追究しそれも「模写」しなければなければならないが、果たしてそれができるだろうかという問題である。
ともあれやってみることにした。心がけたのはディテールの忠実な描写より大胆な画面作りと筆勢、雰囲気の「模写」である。マティエールは何層にも渡って、例によって余った絵具を古キャンバスに塗り重ねた。時にナイフで削りまた重ねる。こうして画面の深みを出す。そうして下層が乾かないうちに例の佐伯の真骨頂の線描により形を決める。特に文字のところはクライマックスだ。これは以前ここでも書いたが、仮に米子らの「加筆」があるとしたら線描だけでは不可能。下地の色面作りからしなければならない。先ずこれを確認した。
これが例の「早描き」である。そうして正味1~2日、あっと言う間に出来た。
完成後軽い興奮を覚え、誰かに見せたくなった。同時に、私が何日もかけ周到に絵作りをする事に比し私も「そりゃねーぜ!」という感慨も持ったが、佐伯の「天才」を垣間た気もした。
別の用件で佐伯のパイオニアwhiteorionさんに会った際それを持参したら「絶賛」されたが、ちょっと複雑な喜びであった。ともあれ余り絵具や古キャンには事欠かない。暫く他のも描いてみよう。
それは、当時明治以来のアカデミズムを批判する立場の前衛的画家にあってさえも、川端画学校→美校という一応のアカデミックな修行過程を経ている画家が多く居り(佐伯自身もそうであるが)、その画家たちが自分たちが踏襲してきた構成からデッサン、配色等の「造形的手続き」に照らし、その逸脱ぶりを過ぎたるは及ばざるが如しとして感じるのはあり得ることである。
そういう意味ではヴラマンクの「このアカデミズム!」という一撃は佐伯自身にもあったそれを逆に象徴する言葉とさえ感じる。
反面佐伯の絵は、戦争や結核などの業病で常に生存の不安に晒されていた当時の人心、とりわけ文学者などの眼には新鮮な驚きと感動を持って受け入れられたようだ。
ともかくその佐伯芸術の造形的真髄を探るにはそれがどのような「手続き」で出来ているかを「追体験」するのが一番であろう。今まで「佐伯風」のオリジナルを描いてみたり、佐伯独自の手製キャンバスを作ったりはしてきたが佐伯そのものを模写したことはなかった。それはいろいろ理由はあるが先ずそれが可能であるかどうか疑問があったからである。つまり模写というのは理屈を言えば古典になればなるほどやり易い。なぜならそれに至る造形的手続きは決まったことなのでそれに従い、現象面を丁寧に追えばほぼ同じものができるはずだからだ。(繰り返すがこれは理屈で実際は難しいことだが)ところが印象派以降となるとその模写のアカデミックな意義は薄れ、その代わり造形性、表現性、精神性等においてもある程度把握、再現しなければならないという問題が生じてくる。
そういう意味を佐伯の絵でいうと、現象面の描写より、その雰囲気、勢い、全体の絵作り、マティエールそれも下地からなど、いろいろ追究しそれも「模写」しなければなければならないが、果たしてそれができるだろうかという問題である。
ともあれやってみることにした。心がけたのはディテールの忠実な描写より大胆な画面作りと筆勢、雰囲気の「模写」である。マティエールは何層にも渡って、例によって余った絵具を古キャンバスに塗り重ねた。時にナイフで削りまた重ねる。こうして画面の深みを出す。そうして下層が乾かないうちに例の佐伯の真骨頂の線描により形を決める。特に文字のところはクライマックスだ。これは以前ここでも書いたが、仮に米子らの「加筆」があるとしたら線描だけでは不可能。下地の色面作りからしなければならない。先ずこれを確認した。
これが例の「早描き」である。そうして正味1~2日、あっと言う間に出来た。
完成後軽い興奮を覚え、誰かに見せたくなった。同時に、私が何日もかけ周到に絵作りをする事に比し私も「そりゃねーぜ!」という感慨も持ったが、佐伯の「天才」を垣間た気もした。
別の用件で佐伯のパイオニアwhiteorionさんに会った際それを持参したら「絶賛」されたが、ちょっと複雑な喜びであった。ともあれ余り絵具や古キャンには事欠かない。暫く他のも描いてみよう。