更にその「チタン白」に何か真贋事件に決定的な影響を及ぼすような意義を感じる。件の武生市の真贋事件については関係資料によると判定委員会なるものは以下の根拠により贋作と判定したようだ。

.ャンパスがテトロンを含んでいる
絵の具が酸化していない
2萇曚鯊任蘇佞韻ぎは顕微鏡調査ではさびていない

 この中に件の「チタン白」は含まれていない。その後の裁判等を含む争いでそれはどのような扱いがなされているのであろうか?まさか専門家各位がこの点を見逃しているとは考えにくい。ともあれ先ず以下のサイトでチタンの基礎知識を得なければ成らない。

http://www.las.ele.cst.nihon-u.ac.jp/~tio2/sankatitan.htm

 すなわちチタン白は「アナターズ型」と「ルチル型」とは明確に違う。それは割りと容易に分析できるらしい。先の年表に現れたごとくルチル型が出始めたのは佐伯死後の戦後のことであるので、佐伯がチタン白を使ったとすれば前者以外に考えられない。。即ちルチル型チタンを使ったものは明らかに戦後作られた贋作である!
 更に言うなら、下層がアナターズで上層がルチルのものは佐伯が描きかけのものを後に誰かが戦後加筆したものと言える。これは「佐伯下絵」と「加筆完成」を同時に示すと言う意味でかなり決定的なことではないか?
 勿論このことはチタン白に限ることで、佐伯にしろ他人にしろ亜鉛華や鉛白の白色顔料を使ったもののには適用できないが。

 次に先に私がもう一つのポイントにあげた「加筆」についてである。私は米子あるいは米子の依頼を受けて第三者が加筆し完成させた作品はあると思う。程度にもよるが、仮にそういうものがあったとしてもそれが佐伯の造形性、芸術性の支配を受けたものであるなら。決して好ましいことではないがそういう「佐伯作」もあり得るというのが私の見解である。
 中世ヨーロッパ絵画のいくつかは弟子が筆を入れたものや、画房全体で仕上げたものでも特定画家個人の作品とされたものがある。それほどのものではないにしても、本邦の市場でも某大家の作品は実際は弟子筋が仕上げたという噂は絶えない。元々本邦市場は「ブランド」で取引されるような胡散臭いところもあり、そういう「不正」が介在する余地はあるのである。
 繰り返すが芸術の世界に一切のアンフェアがあってはならないしこれからも認められないが、現実に出てしまったものならその内容で判断するしかない。

 そこで落合論文中に米子自身の言葉で述べられたとされたものに注目すべきものがある。同論文からそのまま引用する。
≪…「秀丸(祐三の幼名)そのままの絵に一寸手を加えるだけのこと・・・ガッシュというものを使い画づらを整え、また秀丸の絵の具で書き加えますのよ」(昭和四年周蔵宛米子書簡)とあるように、不透明水彩絵具(グァッシュ)を用いて原画の細部を修正したものであった。(現代の代表的修復家杉浦勉氏によると、グァッシュを利用して修正した後で油をたらして表面を調整するのは、油彩の修復技法である。…≫
 文中にあるようにこれは「修復技法」である。これは当書庫の別箇所でも述べた、佐伯ともいろいろ縁がある「修復研究所21」という、修復研究所のサイトにも、「将来の再修復時に容易に除去出来る素材、即ち水彩絵具を使う」と言う趣旨が書いてある。
 落合氏も修復と加筆は物理的に同じことと述べ、私もその通り、ただ目的が違う、米子は描画レベルで修復行為をやったと述べた。

 もしそうで、「米子加筆」が真贋に関係し明確にされなければならないとするなら、これも「論理的には」簡単であろう。即ち疑わしい佐伯の作品を全部「水で洗えば良い」のである。そうすれば作品の仕上がり如何はともかく洗い流された部分は米子加筆部分であり、残った部分は100%佐伯の筆によるということになる。ただこれはあくまで論理の必然であり現実には不可能であろうが。

 最後にもう一度年表に返る。佐伯祐三の名がそういうもとして評価を得たのは、1927年の二科出品の衝撃的デビューに始まり死後の1937年の府立美術館遺作展で定着したと判断できる。山本発次郎によるコレクションもその遺作展前辺りからだろう。
 ところで一般に「贋作」には以下の要件がある。
〇画家本人が死亡していること
〇その画家に市場性があること
 画家が生きていればバレるし、金にならなければ贋作の意味はないからだ。とするなら佐伯の贋作がでるとするなら概ね1937年以後と考えられる。

 この他米子以外の佐伯人脈による加筆・代筆などの問題もあるが、以上が私の立場でのこの真贋事件に関しての興味あるところである。真贋事件は市場、評論、学術、修復、文化行政等いろいろな本邦美術界の人間を巻き込んでいるが、肝心の画家がほとんど含まれていない。何か本邦美術界の「縄張り意識」、「権威主義」、拝金主義、市場等のいい加減さなどいろいろ浮き彫りにされた問題点を感ずるが、こういう時まともな意見が言える画家の不在も象徴的だ。
 年表にあるごとく佐伯絵画は戦争の影が忍び寄る不安と絶望の時代に暗鬱な色彩とマティエールをもって、突き刺すようなインパクトをもって登場し、それ故に当時の人心に受け入れられたものである。
 真贋事件はそうした佐伯芸術の本質と違う次元のところにあるものであることは間違いないだろう。
(おわり)

≪追記≫
平成15年5月15日付け、落合莞爾氏の武生市長宛の書簡に以下の記述がある。(HOKUSAI氏HP「『天才画家「佐伯祐三」真贋事件の真実』の私的まとめ」から引用)
「…判決では「チタン白の時間的矛盾」を強調しています。工業的量産が1940年代に始まったものを、10年前に佐伯が使う筈が無いという理屈ですが、開発完了段階で試作品が画材屋で売られていなかった証拠にはなりません。むしろ新製品は、量産の前に市場の反応を確かめるのが普通です。今後とも、時間をかければ、チタン白が当時のパリで売られていた資料が必ず出てくると、ここに断言します。…」

 上記文を見る限りでは「チタン白」としか書いておらず、アナターズ型、ルチル型の区別が不明。
これがいずれかは先に述べた通り重要である。