≪…中略…私は「真の文化・芸術の価値」というのは、自我に係るは何某かの問題意識からは生まれるではないかと思う。言い換えると「自我の存在について自ら出す回答の形式」である。つまり主体的なものだ。マスメディアなど外部から与えられ吹き込まれるものではない。「集団性への帰属」とは何某かの安全と自己満足は担保されるだろうがそういうものからは文化は生まれない。またそれは「問題意識」から始まるので「現状を良し」とする保守の思想からはうまれない。現状が良いならわざわざ文化など必要がないからだ。
少なくても大衆が「マスコミ文化価値」で「ヒートアップ」している間はエスタブリッシュはやりたいことをやりたいようにできる。…中略…仮に私が権力者・エスタブリッシュで一定の目的の方向へ情報を操作し世論を誘導しようとしたら単独ではなくいくつもの「エサ・ワナ」を仕込み、全体的に、なし崩し的にそういう方向へ持っていく努力をするだろう。それには仮想敵を作り、背景にある事実を隠し、知識を与えず、時にセンセーショナルに、時に快楽的に、時に狂信的事象に目を奪わせる様な情報を提供する。…中略…ことは外堀から埋めるように、深く静かに進められるだろう。先ず「無知の放置」から始まり情報操作、世論誘導、「右向け、右!」、「全体進め!」である。「愛国心教育」から「改憲・再軍備」は現実の問題となっている。≫
これを「愚民化政策」というのではないか!?これが成功したのは伊丹万作も指弾した通りである。
さて上記「ニヒリズム保守」やその前の神話をめぐる「事なかれ保守」、山本容子が指摘していたような傾向、私はその多く見られる年齢層に因み「若年性保守主義」と呼んでいる。今一億総保守化の流れの中でこういう傾向が日本をどう壊していくか、実に≪楽しみ≫である!
件のコミニュティーも「若年性保守主義」は例外ではない。即ち未熟で怠惰でダメな自分のそれなりの「アイデンティティ」が存在できる『現体制』(政治的概念に限らない)を取り合えず支持するということ、「水清くして魚住まず」という言葉とは趣旨が違うが、いい加減な自分が生きていくには、なんでもありの混沌に、ファジーでニュートラルに関われば取り合えず安全である。なまじ真実や正統・正義や修行体系などが支配する世界では困るのである。自分の力量と限界をつきつけられるからだ。「神話」のところで言った≪一つの事象や価値体系を否定、批判するには相当のエネルギーと自我についてそれだけの根拠と何某かの能力がいる。それより現にあるものをあるものとして認めてしまった方がはるかに「楽」なのである。≫というのもそうだし、デッサンなど「アカ造」をめぐる甘い認識もそれと同じ脈絡を持つ。
その特徴的なことは「ニヒリズム」による刃傷沙汰は特別なものとしても、都合の悪い、受け入れ難い他人の思想には対してはしては開き直り逆切れするということである。
当該コミニュティにおいても、日頃自分の作品も表示せず意見は何も言わない、「ロム専」見聞主義のくせにひとたび自分の「安全保障的危機」に関わるものには牙をむいたものがあった。
憲法を持ち出したら「大仰」、ある種の危機感には「短絡的」、その他「言いすぎ」、「考えすぎ」、「本人の自由」…つまり根源的な「意味の所在」を何も考えず何でも認めてしまう。つまり何もしないということだ。
ところでいつも彼らが自分の立場を「短絡的に」結びつけその曖昧主義のよりどころにしているのはなにかにつけての「自由」だろう。その自由とは思想、信条、言論、表現に係るものとして憲法条文に明記されたこと。あまり当たり前でいつも憲法を根拠にしているのに気づかないのだろうか!?憲法持ち出すのは「9条」も大仰なんだろうか?
私の様々の現事象に係る思想は縷縷述べた通りである。しかし断っておくが、もとより私は一切の政治主義的立場にない。その限界と害悪、胡散臭さとご都合主義を文化芸術の視点から何度も感じているからである。しかしそのことは政治に無関心であることを意味しない。人間として、一創造者として、衆愚ならざるものとして必要なことを当たり前のことを言っているつもりである。ところが、これを「左翼」とレッテル貼ってきたものがいた。「左翼」とは誠に昔懐かしい言葉であるが、自分の知っている左翼という既成の政治主義的概念に、人の主体的思想を閉じ込めてレッテル貼るというのも失礼な話だが、誠に大雑把でお粗末なその「世代論」や「責任論」の括りからすると、この辺の知的レベルは推して知るべしや。
然るに文句があるなら国を出て行けばよいという「厭国・逃避志向」はあまりに甘く、メティエや西洋文化に係るオマージュも「少女趣味的」に思えるというものだ。何の「力」も感じない。
因みに私は自慢ではないが、土建屋国家、エコノミック・アニマル、賎民資本主義と世界から揶揄され、人間の価値を稼得能力や社会的地位で測るような戦後日本の建設に何一つ貢献した覚えはない。勿論「こんな時代、こんな国に生まれた私が一番悪いのよ、電信柱が高いのも郵便ポストが赤いのもみんな私のせいなのよ!」とも言うつもりもない。(つづく)
少なくても大衆が「マスコミ文化価値」で「ヒートアップ」している間はエスタブリッシュはやりたいことをやりたいようにできる。…中略…仮に私が権力者・エスタブリッシュで一定の目的の方向へ情報を操作し世論を誘導しようとしたら単独ではなくいくつもの「エサ・ワナ」を仕込み、全体的に、なし崩し的にそういう方向へ持っていく努力をするだろう。それには仮想敵を作り、背景にある事実を隠し、知識を与えず、時にセンセーショナルに、時に快楽的に、時に狂信的事象に目を奪わせる様な情報を提供する。…中略…ことは外堀から埋めるように、深く静かに進められるだろう。先ず「無知の放置」から始まり情報操作、世論誘導、「右向け、右!」、「全体進め!」である。「愛国心教育」から「改憲・再軍備」は現実の問題となっている。≫
これを「愚民化政策」というのではないか!?これが成功したのは伊丹万作も指弾した通りである。
さて上記「ニヒリズム保守」やその前の神話をめぐる「事なかれ保守」、山本容子が指摘していたような傾向、私はその多く見られる年齢層に因み「若年性保守主義」と呼んでいる。今一億総保守化の流れの中でこういう傾向が日本をどう壊していくか、実に≪楽しみ≫である!
件のコミニュティーも「若年性保守主義」は例外ではない。即ち未熟で怠惰でダメな自分のそれなりの「アイデンティティ」が存在できる『現体制』(政治的概念に限らない)を取り合えず支持するということ、「水清くして魚住まず」という言葉とは趣旨が違うが、いい加減な自分が生きていくには、なんでもありの混沌に、ファジーでニュートラルに関われば取り合えず安全である。なまじ真実や正統・正義や修行体系などが支配する世界では困るのである。自分の力量と限界をつきつけられるからだ。「神話」のところで言った≪一つの事象や価値体系を否定、批判するには相当のエネルギーと自我についてそれだけの根拠と何某かの能力がいる。それより現にあるものをあるものとして認めてしまった方がはるかに「楽」なのである。≫というのもそうだし、デッサンなど「アカ造」をめぐる甘い認識もそれと同じ脈絡を持つ。
その特徴的なことは「ニヒリズム」による刃傷沙汰は特別なものとしても、都合の悪い、受け入れ難い他人の思想には対してはしては開き直り逆切れするということである。
当該コミニュティにおいても、日頃自分の作品も表示せず意見は何も言わない、「ロム専」見聞主義のくせにひとたび自分の「安全保障的危機」に関わるものには牙をむいたものがあった。
憲法を持ち出したら「大仰」、ある種の危機感には「短絡的」、その他「言いすぎ」、「考えすぎ」、「本人の自由」…つまり根源的な「意味の所在」を何も考えず何でも認めてしまう。つまり何もしないということだ。
ところでいつも彼らが自分の立場を「短絡的に」結びつけその曖昧主義のよりどころにしているのはなにかにつけての「自由」だろう。その自由とは思想、信条、言論、表現に係るものとして憲法条文に明記されたこと。あまり当たり前でいつも憲法を根拠にしているのに気づかないのだろうか!?憲法持ち出すのは「9条」も大仰なんだろうか?
私の様々の現事象に係る思想は縷縷述べた通りである。しかし断っておくが、もとより私は一切の政治主義的立場にない。その限界と害悪、胡散臭さとご都合主義を文化芸術の視点から何度も感じているからである。しかしそのことは政治に無関心であることを意味しない。人間として、一創造者として、衆愚ならざるものとして必要なことを当たり前のことを言っているつもりである。ところが、これを「左翼」とレッテル貼ってきたものがいた。「左翼」とは誠に昔懐かしい言葉であるが、自分の知っている左翼という既成の政治主義的概念に、人の主体的思想を閉じ込めてレッテル貼るというのも失礼な話だが、誠に大雑把でお粗末なその「世代論」や「責任論」の括りからすると、この辺の知的レベルは推して知るべしや。
然るに文句があるなら国を出て行けばよいという「厭国・逃避志向」はあまりに甘く、メティエや西洋文化に係るオマージュも「少女趣味的」に思えるというものだ。何の「力」も感じない。
因みに私は自慢ではないが、土建屋国家、エコノミック・アニマル、賎民資本主義と世界から揶揄され、人間の価値を稼得能力や社会的地位で測るような戦後日本の建設に何一つ貢献した覚えはない。勿論「こんな時代、こんな国に生まれた私が一番悪いのよ、電信柱が高いのも郵便ポストが赤いのもみんな私のせいなのよ!」とも言うつもりもない。(つづく)