今回は全面既出拙文から引用となる。

≪CSのある放送で姜尚中東大教授が【メディアは(情報提供に当り)ヒートアップ、クールダウンを繰り返す、その行き着く先は(受け手)のニヒリズムである】と言うような趣旨を述べていた。…中略… このニヒリズムこそ体制の「自動安定装置」に他ならない。
 即ち、マスメディアは先ず大衆の耳目を集めるような、センセーショナルでニュースヴァリューのある情報を提供しヒートアップさせる。しだいにクールダウンした頃別の情報でヒートアップさせるその繰り返し。…中略…大衆がその敷いたレールや指し示す方向に従わなければならない義務はないがそのエネルギーの強さに圧倒されるのである。…中略…現象的なインパクトでことの本質を隠す、すり替えるということについて、中東問題やアメリカの世界戦略、朝鮮問題、テロの問題などシビアな問題についてもあったがこれは別項でも述べたし長くなるのでここでは割愛する。

 一つだけ例をあげる。1971年当時の「沖縄返還」をめぐり日米間に「密約」があったとする当時の毎日新聞・西山太吉記者のスクープ記事である。…中略…西山元記者は密約が確かに存在したという先ごろの「吉野(元外務省アメリカ局長)告白」を受け、現在国を相手に損害賠償請求訴訟を起こしている。(http://plaza.across.or.jp/~fujimori/nt03.html#06/3/6
 西山を囲んだ別番組で出席者全員がどうしてこんな重大な事実がもっと報道されないんだろう!と疑問を投げかけていた。折しもWカップサッカーをめぐる「バカ騒ぎ」が始まった頃だ。誠に迷惑な話である。これがことの本質の隠蔽とすり替えの一例と言えるものだ。
 先の放送で同じ出席者の評論家佐高信が例を挙げていた。ある日の朝日新聞を見てこれはスポーツ新聞ではないかと驚いたという。一面トップに「中田引退!」とあったという。これは私も見た。他に一面トップで「イチローがどうした」とか言うのも見た。私の場合驚いたというより笑ってしまった。中田引退はある人種にとっては大事件だろうが天下国家に何の関係がある!もっと報道すべきことは沢山あるはず。それが朝日のような大新聞にしてこの有様。
 これはメディア自体が情報の価値体系を喪失していることの現われだ。物事の優先順をヒート・ヴァリューに置いているだけのこと。

 さて今度は受け手の側に立って、姜の「ニヒリズム」から自論を展開させると、そのニヒリズムは以下のメカニズムを持つ。
 情報価値の均一化→自我において思想や人生のテーマの不在→ニヒリズムなりの保守化→「逆切れ」。
 先に「メディア自体が情報の価値体系を喪失している」と述べたが、姜も言っていたが、受け手の側も価値の優先順体系がない。安保も中東もテポドンも靖国も中田も亀田も「秋葉原文化」も彼らにおいては全部同じ比重を持つ。正確に言えば優先順位はある。ところがその優先順位は刹那的、快楽的、趣味的、自己の体温に見合う「温度」があるものを優先。思想とかメティエとか人生のテーマとか自己啓発とかに関わるという意味では比重を持たない情報なのだ。もっとも、物事の優先順位体系を持たないのはこれに始まったことではない。そういう、自分にとって今何が何より大事かの判断がつかない御仁はこの辺にも数多くいるようだ。「損得勘定」するのならその辺からやったらどうかと思うのだがね…。ともかく、これが情報の均一化。
 「ヒートアップとクールダウン」で挑発され、その本質や実体が隠蔽された短いサイクルの情報の洪水に晒され、それでなくてもとかく「群れたがる」国民性もあり、だんだん逆にそれへ順応していかなければ時代に取り残されるような気になり、その繰り返しうちに、受身で思想も主体性もない人格が形成されるということをニヒリズムと言ったのだろう。
 
 最後はニヒリズムなりの保守化についてである。再び姜によれば、フリーターやニート、ひきこもりなど生産社会や常識的市民社会体系からはアウトサイダーであったり、ドロップアウトした人間に、本来自分たちの「墓掘り人」であるはずの現体制を支持するという「珍現象」が見られるということ。「墓掘り人」とは、本来自分たちを差別し、排除し、不利益を与える側の人間という意味である。キャスターの小西克哉も、同じ趣旨で、超保守政権であるアメリカのブッシュ政権を支持する「プアー・ホワイト」と呼ばれる貧困階層を紹介。

 これに関係し先ごろ興味ある事件があった。一つは奈良の「母子放火殺人事件」。もう一つは大阪の「母撲殺事件」である。犯人はいずれも言うところの一流高校・大学に在籍する「優等生」。前者は両親とも医者の「エリート一家」。後者は兄弟みんな「一流大学」この社会的格付けがプレッシャーとなったことも事実だろが、もう一つありそうだ。
 前者においては犯行後、他人の家に上がり込みなんとテレビをつけサッカーWカップを見ていたという。そして冷蔵庫から勝手にジュースを出して飲み、おまけにその代金をちゃんと500円だか置いていたという。
 異常な精神状態でもあり説明つかない行動であるが、この異常な「価値の優先付けの倒錯」をどうみればよいのか?前者は勉強のこと後者はパチスロ狂いの日々を詰問されたことによる逆上反抗らしい。

 前に述べた図式で言うと、先ず彼らを支配していたのはニヒリズムである。自己において何某かの自己啓発に係る意思も目的感もない、人生にテーマも見出せない、思想もない、これらを克服できる何かの特別な才能もなかったと判断できる。しかしサッカーやパチスロなどの趣味的、快楽的、刹那的安定感、自己の体温と「温度差のない日常性」は守りたい、それを批判攻撃してくるものには異常に反発する。「逆切れ」だ。
 先の「墓掘人」支持や「プアホワイト」の保守も、自己の真に受け皿となるものがない反面、体制が自己のニヒリズムの守り手であるかのごとき錯覚を感じるからではないか。ことは特別なことではない。その「素養」自体は市民社会全般に日常的に潜んでいるということだろう。事実彼らは昨日まで「善良な市民」だったのである。(つづく)