一例を挙げる。その後相変わらず「写真を見て描く」ということについて、その「正当性」主張する意見があるらしい。最早それはどうでもよい!好きなようにやればよい。ムクロになるまで信じるということはそれなりに「幸福」というものだ。
写真を見ながら描くことについては、私ら「当たり前派」の主張の趣旨は、「造形」についての基本的な姿勢、考え方についての原則であり、資料や参考として利用すること、取材の効率や肖像画などの職業的要請による写真の援用等は一定是認しているのである。
「写真描き」(「絵描き」とは呼べない)はよく先達の誰それも写真を見ながら描いていたと言うが、これは全く通用しない。それは、その先達にはそれ以前に練磨された自己の造形性を有していること、その上でダビンチ的な「造形的好奇心」のある画家がリアリズム追究の一試みとして出始めの写真技術に興味を持つのは不思議でないこと、したがってその結果として現れた作品の価値は、写真の機能性とは関係なく存在すること等による。
つまり問題はその写真を「コントロール」できる造形性が自己にあるか否かにある。これが出来なければ写真に「描かされる」というれる哀れな結果になるのである。この辺は何回言っても理解力がないのか読んでさえいないのか、ともかくも論より証拠、その「蟹の甲羅」論理の破綻の明らかな表れがある。
ある流れからその「蟹派」の作品に一瞥を投じる機会があった。風景画である。しかしそれは絵画というより芝居の「書割」に近い。自然の大らかさ、清冽な息吹、瑞々しい生命感、光の輝き、詩情等凡そ絵画芸術たる風景画の真髄は望むべくもない。空の高さや透明感、奥行き、広がり、山や木々のどっしりした量感、斜面の立体感、水の透明感などの質感、など大所高所が何一つできていない。その空間処理ができていないので中心モティーフが背景にベタッとくっ着いて距離感が出てない。勿論古典派のようなリアリズムの表現ができているわけではないし、かといって印象派の活気ある色彩もない。半端に硬いフォルム、単調でニュアンスもヴァリエーションもない色彩、「木を見て森を見ない」近視眼的タッチだけが目につく。おまけに主人公となるべきモティーフの部分がちょん切れている。それを中心とした最も基本的な構成の段階からしてできていない。
何故このような絵になるのか?日頃「アカ造」修行を避けているから絵画の基本を知らない。知らないまま写真を見て描いているからである!写真は「切り取られた結論」にすぎない。前記のような表現的意義は「人間」たる描き手が感じることであり機械は感じることができないものだ。当たり前の話。だから写真を転写してもそれ以上のものは描けない。ちょん切れたまま描いたのも写真がそうなっているからだ。写真に「描かされる」という典型である。
ひとたび自然に向かい、キャンバスにその汲めども尽きない美のメッセージを表現したい、あるいはそれを通じて自我を表現したいとするなら、一片の紙焼きの転写などが応じきれるはずがない。このような自明の事をまともに受け止めようとせず、自らのスローガン主義、スケジュール主義に絵画芸術の方をあわせようというのだから正に「甲羅に合わせて穴を掘る」そのものではないか。
ところがこれを認知し一生懸命支援しながら私ら造形の本道に立つ立場に常に挑戦的、敵対的だった「お友達」もいる。その「師匠格」の作品も見る機会があった。「類は友を呼ぶ」とはよく言ったものだ。同様に先の風景画で述べたようなことが、同じくする原因で何も出来ていない。風景画はスナップ写真のようなだし人間は硬直した木偶人形のようだ。写真転写の人物画もあった。異常に頭の上の空間が空いている。必然首から下の胸の部分が必要な分量だけを満たしてない。誠にバランスの悪いものとなっている。これも基本的な構成からして出来ていない。何故そうか?写真がそうなっているからである。あとでトリミング云々言っても何にも意味もない。PCモニターでどう見えようとオリジナルが問題なのだ。立体感以下「アカ造」は言うに及ばず。
いずれも写真に「描かされている」例である。これが、如何に彼ら「写真描き」の自己弁明的主張が破綻してるかということを「鮮やかに」証明している厳然とした結果なのである。しかしこれ以上言うのは酷な気がする。写真を見ることでしか絵が描けないのだから!彼らを大自然の前に引っ張り出して「さあ。描いてごらん」と言っても、どこからどう手をつけて良いかわからないでオロオロするばかりだろう。彼らの「論理」は絵画芸術の世界の話ではない。最早「信仰」だ。信仰を科学を仲立ちとして芸術に結びつけようとして、全く意味のない科学的概念を導入しようとしたりする。しかし「鰯の頭も信仰!」合掌!!
その某人について付け加えれば、本当は絵を知らない、体系的な造形修行はしたことがないとの確信を私は持つ。作品や文を見れば判るのだ。おそらく本格的な油彩タブローはほとんど描いたことがないだろう。水彩で写真を見ながらA4サイズ程度のイラストっぽいものを描くことが「真骨頂」なのだろう。描いた油彩もその油彩の特性をいかしたものではなく、使った絵具がたまたま「油絵具」だった絵というべきだろう。早い話が「素人」の絵だ。
先のような傾向の絵にレクチャーするなら前述のようなことを言ってやるべきだし、何処でも言ってることだが本人が判ってなきゃ言える筈がない。本質的なことが出きてないのにグレーズだスカンブルだグリザイユだなど「10年早い」。ところが困った事にこう言う者に限ってそういう手練手管については饒舌なのだ。やたらに具体的テクニックのボキャブラリーを披瀝する。それを有り難く拝聴する者もいるからなお困る。
そのテクニックに因みもう一つ例をあげる。例えばそのものがよくする「グレージング」にしてもニス塗りにしても、やればよいというものではない。絵画はバランスの芸術である。うかつにすればいずれも微妙な色調やトーンのバランスを崩し、色やマティエールのニュアンスや深み、味わいなどを台無しにする惧れのある、相当な専門家でも慎重さを要する作業なのだ。いずれもそれまでの「絵づくり」のプロセスと連動したものでなければならない。
絵具そのものにしても顔料の屈折率や被覆力や透層力は全部違う。さらにその色彩が幾重にも層を為すことにより画面に深みや味わいを与えたものが広義のマティエールと言えるものだ。逆にこれらの特性をどう生かすというのが油彩の妙味でもあり重要なテクニックでもある。そうした事を考えずに画一的にニスを塗る、グレーズするというのは実に乱暴な話なのだ。水彩は水彩としての味わいはあるが日頃水彩ばかり描いていて油彩を描かないものが油彩のこうしたことを体得できるはずがない。無知による恐いもの知らずの典型だろう。
トーン重視の古典絵画は白や黒など無彩色で混色の段階で色調をある程度均一化するのでニスを塗りは調子復活と画面保護の観点から合理性はあるが、色彩重視傾向の絵はそうはいかない。事実ニス塗りは印象派以降激減しているのである。
これらはほんの一例だ。他のいろいろな言葉についてももいかにもナマでどっかから検索・引用したようなもので、本人の反芻された造形思想から出たものとはとても思えない。
もっと言うなら本人もこうしたことを自覚しているのではないか?その何某かのコンプレックスからことごとく反対意見を述べるしか、自己主張できないのであろう。
絵画芸術はもとより自由である。しかし絵画的価値とはものは言いようでどうにでもなるといったものではない。おのずから絵画芸術としての価値体系がある。その何某かの価値を希求するにはひとたびは謙虚に、真摯に造形の世界に向き合うことが必要なのだ。その価値とは、イチかバチかの勝負で得られるものではないし、偶然性に支配されるものでもないからだ。乾坤一擲を狙って「豚が空飛ぶような絵」を描いても自由だが、多くは結果が見えている。
繰り返すが本人たちがそれを楽しんでそれなりの仲良しクラブでチャラチャラやってる分には何も文句はない。
ところが、絵画芸術を貶め、歪曲、矮小化するようなハッタリ、邪道、趣味的なスローガン主義・スケジュール主義がその認知を求めて造形の本道に敵対的な言動を持ち込むならばその立場での対処は当然である。少なくても玉石混合は御免だ。
(つづく)
写真を見ながら描くことについては、私ら「当たり前派」の主張の趣旨は、「造形」についての基本的な姿勢、考え方についての原則であり、資料や参考として利用すること、取材の効率や肖像画などの職業的要請による写真の援用等は一定是認しているのである。
「写真描き」(「絵描き」とは呼べない)はよく先達の誰それも写真を見ながら描いていたと言うが、これは全く通用しない。それは、その先達にはそれ以前に練磨された自己の造形性を有していること、その上でダビンチ的な「造形的好奇心」のある画家がリアリズム追究の一試みとして出始めの写真技術に興味を持つのは不思議でないこと、したがってその結果として現れた作品の価値は、写真の機能性とは関係なく存在すること等による。
つまり問題はその写真を「コントロール」できる造形性が自己にあるか否かにある。これが出来なければ写真に「描かされる」というれる哀れな結果になるのである。この辺は何回言っても理解力がないのか読んでさえいないのか、ともかくも論より証拠、その「蟹の甲羅」論理の破綻の明らかな表れがある。
ある流れからその「蟹派」の作品に一瞥を投じる機会があった。風景画である。しかしそれは絵画というより芝居の「書割」に近い。自然の大らかさ、清冽な息吹、瑞々しい生命感、光の輝き、詩情等凡そ絵画芸術たる風景画の真髄は望むべくもない。空の高さや透明感、奥行き、広がり、山や木々のどっしりした量感、斜面の立体感、水の透明感などの質感、など大所高所が何一つできていない。その空間処理ができていないので中心モティーフが背景にベタッとくっ着いて距離感が出てない。勿論古典派のようなリアリズムの表現ができているわけではないし、かといって印象派の活気ある色彩もない。半端に硬いフォルム、単調でニュアンスもヴァリエーションもない色彩、「木を見て森を見ない」近視眼的タッチだけが目につく。おまけに主人公となるべきモティーフの部分がちょん切れている。それを中心とした最も基本的な構成の段階からしてできていない。
何故このような絵になるのか?日頃「アカ造」修行を避けているから絵画の基本を知らない。知らないまま写真を見て描いているからである!写真は「切り取られた結論」にすぎない。前記のような表現的意義は「人間」たる描き手が感じることであり機械は感じることができないものだ。当たり前の話。だから写真を転写してもそれ以上のものは描けない。ちょん切れたまま描いたのも写真がそうなっているからだ。写真に「描かされる」という典型である。
ひとたび自然に向かい、キャンバスにその汲めども尽きない美のメッセージを表現したい、あるいはそれを通じて自我を表現したいとするなら、一片の紙焼きの転写などが応じきれるはずがない。このような自明の事をまともに受け止めようとせず、自らのスローガン主義、スケジュール主義に絵画芸術の方をあわせようというのだから正に「甲羅に合わせて穴を掘る」そのものではないか。
ところがこれを認知し一生懸命支援しながら私ら造形の本道に立つ立場に常に挑戦的、敵対的だった「お友達」もいる。その「師匠格」の作品も見る機会があった。「類は友を呼ぶ」とはよく言ったものだ。同様に先の風景画で述べたようなことが、同じくする原因で何も出来ていない。風景画はスナップ写真のようなだし人間は硬直した木偶人形のようだ。写真転写の人物画もあった。異常に頭の上の空間が空いている。必然首から下の胸の部分が必要な分量だけを満たしてない。誠にバランスの悪いものとなっている。これも基本的な構成からして出来ていない。何故そうか?写真がそうなっているからである。あとでトリミング云々言っても何にも意味もない。PCモニターでどう見えようとオリジナルが問題なのだ。立体感以下「アカ造」は言うに及ばず。
いずれも写真に「描かされている」例である。これが、如何に彼ら「写真描き」の自己弁明的主張が破綻してるかということを「鮮やかに」証明している厳然とした結果なのである。しかしこれ以上言うのは酷な気がする。写真を見ることでしか絵が描けないのだから!彼らを大自然の前に引っ張り出して「さあ。描いてごらん」と言っても、どこからどう手をつけて良いかわからないでオロオロするばかりだろう。彼らの「論理」は絵画芸術の世界の話ではない。最早「信仰」だ。信仰を科学を仲立ちとして芸術に結びつけようとして、全く意味のない科学的概念を導入しようとしたりする。しかし「鰯の頭も信仰!」合掌!!
その某人について付け加えれば、本当は絵を知らない、体系的な造形修行はしたことがないとの確信を私は持つ。作品や文を見れば判るのだ。おそらく本格的な油彩タブローはほとんど描いたことがないだろう。水彩で写真を見ながらA4サイズ程度のイラストっぽいものを描くことが「真骨頂」なのだろう。描いた油彩もその油彩の特性をいかしたものではなく、使った絵具がたまたま「油絵具」だった絵というべきだろう。早い話が「素人」の絵だ。
先のような傾向の絵にレクチャーするなら前述のようなことを言ってやるべきだし、何処でも言ってることだが本人が判ってなきゃ言える筈がない。本質的なことが出きてないのにグレーズだスカンブルだグリザイユだなど「10年早い」。ところが困った事にこう言う者に限ってそういう手練手管については饒舌なのだ。やたらに具体的テクニックのボキャブラリーを披瀝する。それを有り難く拝聴する者もいるからなお困る。
そのテクニックに因みもう一つ例をあげる。例えばそのものがよくする「グレージング」にしてもニス塗りにしても、やればよいというものではない。絵画はバランスの芸術である。うかつにすればいずれも微妙な色調やトーンのバランスを崩し、色やマティエールのニュアンスや深み、味わいなどを台無しにする惧れのある、相当な専門家でも慎重さを要する作業なのだ。いずれもそれまでの「絵づくり」のプロセスと連動したものでなければならない。
絵具そのものにしても顔料の屈折率や被覆力や透層力は全部違う。さらにその色彩が幾重にも層を為すことにより画面に深みや味わいを与えたものが広義のマティエールと言えるものだ。逆にこれらの特性をどう生かすというのが油彩の妙味でもあり重要なテクニックでもある。そうした事を考えずに画一的にニスを塗る、グレーズするというのは実に乱暴な話なのだ。水彩は水彩としての味わいはあるが日頃水彩ばかり描いていて油彩を描かないものが油彩のこうしたことを体得できるはずがない。無知による恐いもの知らずの典型だろう。
トーン重視の古典絵画は白や黒など無彩色で混色の段階で色調をある程度均一化するのでニスを塗りは調子復活と画面保護の観点から合理性はあるが、色彩重視傾向の絵はそうはいかない。事実ニス塗りは印象派以降激減しているのである。
これらはほんの一例だ。他のいろいろな言葉についてももいかにもナマでどっかから検索・引用したようなもので、本人の反芻された造形思想から出たものとはとても思えない。
もっと言うなら本人もこうしたことを自覚しているのではないか?その何某かのコンプレックスからことごとく反対意見を述べるしか、自己主張できないのであろう。
絵画芸術はもとより自由である。しかし絵画的価値とはものは言いようでどうにでもなるといったものではない。おのずから絵画芸術としての価値体系がある。その何某かの価値を希求するにはひとたびは謙虚に、真摯に造形の世界に向き合うことが必要なのだ。その価値とは、イチかバチかの勝負で得られるものではないし、偶然性に支配されるものでもないからだ。乾坤一擲を狙って「豚が空飛ぶような絵」を描いても自由だが、多くは結果が見えている。
繰り返すが本人たちがそれを楽しんでそれなりの仲良しクラブでチャラチャラやってる分には何も文句はない。
ところが、絵画芸術を貶め、歪曲、矮小化するようなハッタリ、邪道、趣味的なスローガン主義・スケジュール主義がその認知を求めて造形の本道に敵対的な言動を持ち込むならばその立場での対処は当然である。少なくても玉石混合は御免だ。
(つづく)