※YAHOO掲示板「どうしたらうまくかけるの」より抜粋1
拙作の引用で恐縮ですが、私の人形の絵でアクセントとなっているのはコスチュームの質感とグラデーションです。これは生きた目で追っかけ、その動きが筆に連動することによりのみ表現されると思います。これを写真に撮ったら画一的な明暗しか現れません。それを転写する方がはるかに簡単なのですが貧弱な描写にしかなりません。
一般的な絵画芸術においてことは「賛否」の問題ではありません。既に結論の出ていることです。古今東西写真を描いた絵で名画はありません。優れた画家で写真を描いている画家はいません。まともな絵画研究機関で写真を描くことを教えてるところはありません。
それと先達も写真を描いたとする例を挙げているサイトがありましたが、先達の名誉の為一言申し上げておきますが、彼らはいずれも質量とも半端でないデッサンやスケッチを残し、半端でない自己の造形世界を築いた人達で間違っても写真に描かされるということはありません。
その上でそういう画家達が出始めた写真に関心を持っても不思議ではありません。もしルネッサンス期に写真があったならダビンチあたりもそれを描いたでしょう。これは、科学技術の発展という時代的背景を得た、絵画芸術におけるリアリズム追究の一合理的試みという美術史的側面で捉えるべきであり、今日の絵画と写真の関係にまで一般的に敷衍して語れるレベルの話でない事は言うまでもありません。
※YAHOO掲示板「どうしたらうまくかけるの」より抜粋2
ところで古典派の風景画家は現場でスケッチをしアトリエでタブローにするという行為を繰り返してリアルな作品にしていましたが、写真のない時代でしたのでその間どうしても自分の「創造力」や「想像力」を介在させて完成に持っていく必要があります。風景画は元々人物画や静物画がのようなモティーフの属性の拘束は弱いので画家個人の心情や造形思想や宗教的世界観等を介在させ易く、それゆえ自由で個性的な「リアリズム」の世界を構築できたと思います。
しかしもっと言うなら、一見リアリズムをイメージする「古典派風景画」と言ってもイギリス系、フランス系、イタリア系、フランドル・オランダ系(親イタリア派を含む)などありますが私の感想ではどれもリアリズムではない!木や雲や地平の表現が観念化、類型化し過ぎていると思います。印象派がリアリズムの極致という見方もありますがあまりにフォルムが溶解し過ぎている。アメリカン・ハイパーリアリズムなどの冷徹なものは風景画というより別のメッセージを感じる。バルビゾン派のミレーは「風俗画」に近い。同じバルビゾン派の私の「師」コローは人物画も描いていますが精髄は風景画家だと思いますが、リアリストではない。仔細は省きますが独自の方法論から私は「イメージ画家」と考えています。
等々を考えると風景画としての真のリアリズムに近いのはロシア・旧ソ連系。シーシキン、カメネフ、ワシリーエフ、グリッツァイなど凄い!一部で写実過ぎてつまらないという意見がありますが私はそうは思えません。あのロシアの大地の冷涼な息吹が伝わってきます。
芸術とは基より自由なものですが、その自由とは絵画芸術ならその土俵の上にある、その枠の妙味を敢えて受け入れながらの自由です。このタガをはずしてしまうと芸術は際限なく歪曲矮小化されていってしまう。
絵画芸術の、風景画の、リアリズムという一領域についてだけでも縷縷述べたようなことが言える。そのような混沌の中で自分の目と手で真の造形世界を模索するのが画家というものではないでしょうか?少なくても其処には、写真を見ながら描いたスナップ写真のような風景画、図鑑やカタログのイラストのような静物画、木偶(デク)人形のような人物画が芸術として占める位置はない。
理屈は何とでも言えます。結局は絵画芸術と自己のメティエに係るポリシー、プライド、良心の問題ではないかと思います。
「写真を描くくらいなら酒飲んで寝た方が良い」とtyanさんは仰いますが私は「絵描き」ならぬ「写真描き」になるくらいなら死んだ方がよい!
※YAHOO掲示板「どうしたらうまくかけるの」より抜粋3
orionさんが戸惑っているいうことなのでこのことについて私の見解をまとめ私も終わりにしたいと思います。
ここで私とtyanさん、私が紹介したサイトで二名、hidemiさんご紹介の肖像画家き二名、この辺だけで計六名の絵描きが写真を見ながら絵を描くことを否定的に捉えています。また研究所や美大、絵画教室等で写真を絵にすることを教えているところはありません。
これらの事実は絵画芸術の表現メディアとしての意義という側面、絵画技術を修行するという造形的側面の二面について写真見ながらそれを絵にするというのは意味のないのみならず害になるということを示しています。その根拠は別途述べたり紹介したので割愛します。
私やtyanさんは個々の描き手の自由に干渉するつもりなく、この「原則論」にこだわっているのです。事は当たり前のことですので独善でも排他でもない。
然るにこれから絵をやろうという人やhidemiさんのように写真を描くことに限界を感じ始めた人には当然そのようなことを言わなければなりません。これらに混乱を与えるようなものが出てきたのでその立場で言うべきことを言う必要があったのです。
しかし私も縷縷述べている通り一定の要件で写真の援用は是認してますし、tyanさんも「リアリズム追究』的絵画に適応される原則である旨述べています。
例えばorionさんの風景画、三点とも夜景ですがこれを夜スケッしろというほうが無理。写真を資料にしてイメージで仕上げてもなんら文句を言うつもりはありません。要は作品がよければ良い。(ベニスのはいいですね!)ただ例えば昼間の作品の場合などで写真を見ながら描くことを常態しては先の表現的意義、造形的意義で限界があるだろうというのが私らの原則論の立場です。
拙作の引用で恐縮ですが、私の人形の絵でアクセントとなっているのはコスチュームの質感とグラデーションです。これは生きた目で追っかけ、その動きが筆に連動することによりのみ表現されると思います。これを写真に撮ったら画一的な明暗しか現れません。それを転写する方がはるかに簡単なのですが貧弱な描写にしかなりません。
一般的な絵画芸術においてことは「賛否」の問題ではありません。既に結論の出ていることです。古今東西写真を描いた絵で名画はありません。優れた画家で写真を描いている画家はいません。まともな絵画研究機関で写真を描くことを教えてるところはありません。
それと先達も写真を描いたとする例を挙げているサイトがありましたが、先達の名誉の為一言申し上げておきますが、彼らはいずれも質量とも半端でないデッサンやスケッチを残し、半端でない自己の造形世界を築いた人達で間違っても写真に描かされるということはありません。
その上でそういう画家達が出始めた写真に関心を持っても不思議ではありません。もしルネッサンス期に写真があったならダビンチあたりもそれを描いたでしょう。これは、科学技術の発展という時代的背景を得た、絵画芸術におけるリアリズム追究の一合理的試みという美術史的側面で捉えるべきであり、今日の絵画と写真の関係にまで一般的に敷衍して語れるレベルの話でない事は言うまでもありません。
※YAHOO掲示板「どうしたらうまくかけるの」より抜粋2
ところで古典派の風景画家は現場でスケッチをしアトリエでタブローにするという行為を繰り返してリアルな作品にしていましたが、写真のない時代でしたのでその間どうしても自分の「創造力」や「想像力」を介在させて完成に持っていく必要があります。風景画は元々人物画や静物画がのようなモティーフの属性の拘束は弱いので画家個人の心情や造形思想や宗教的世界観等を介在させ易く、それゆえ自由で個性的な「リアリズム」の世界を構築できたと思います。
しかしもっと言うなら、一見リアリズムをイメージする「古典派風景画」と言ってもイギリス系、フランス系、イタリア系、フランドル・オランダ系(親イタリア派を含む)などありますが私の感想ではどれもリアリズムではない!木や雲や地平の表現が観念化、類型化し過ぎていると思います。印象派がリアリズムの極致という見方もありますがあまりにフォルムが溶解し過ぎている。アメリカン・ハイパーリアリズムなどの冷徹なものは風景画というより別のメッセージを感じる。バルビゾン派のミレーは「風俗画」に近い。同じバルビゾン派の私の「師」コローは人物画も描いていますが精髄は風景画家だと思いますが、リアリストではない。仔細は省きますが独自の方法論から私は「イメージ画家」と考えています。
等々を考えると風景画としての真のリアリズムに近いのはロシア・旧ソ連系。シーシキン、カメネフ、ワシリーエフ、グリッツァイなど凄い!一部で写実過ぎてつまらないという意見がありますが私はそうは思えません。あのロシアの大地の冷涼な息吹が伝わってきます。
芸術とは基より自由なものですが、その自由とは絵画芸術ならその土俵の上にある、その枠の妙味を敢えて受け入れながらの自由です。このタガをはずしてしまうと芸術は際限なく歪曲矮小化されていってしまう。
絵画芸術の、風景画の、リアリズムという一領域についてだけでも縷縷述べたようなことが言える。そのような混沌の中で自分の目と手で真の造形世界を模索するのが画家というものではないでしょうか?少なくても其処には、写真を見ながら描いたスナップ写真のような風景画、図鑑やカタログのイラストのような静物画、木偶(デク)人形のような人物画が芸術として占める位置はない。
理屈は何とでも言えます。結局は絵画芸術と自己のメティエに係るポリシー、プライド、良心の問題ではないかと思います。
「写真を描くくらいなら酒飲んで寝た方が良い」とtyanさんは仰いますが私は「絵描き」ならぬ「写真描き」になるくらいなら死んだ方がよい!
※YAHOO掲示板「どうしたらうまくかけるの」より抜粋3
orionさんが戸惑っているいうことなのでこのことについて私の見解をまとめ私も終わりにしたいと思います。
ここで私とtyanさん、私が紹介したサイトで二名、hidemiさんご紹介の肖像画家き二名、この辺だけで計六名の絵描きが写真を見ながら絵を描くことを否定的に捉えています。また研究所や美大、絵画教室等で写真を絵にすることを教えているところはありません。
これらの事実は絵画芸術の表現メディアとしての意義という側面、絵画技術を修行するという造形的側面の二面について写真見ながらそれを絵にするというのは意味のないのみならず害になるということを示しています。その根拠は別途述べたり紹介したので割愛します。
私やtyanさんは個々の描き手の自由に干渉するつもりなく、この「原則論」にこだわっているのです。事は当たり前のことですので独善でも排他でもない。
然るにこれから絵をやろうという人やhidemiさんのように写真を描くことに限界を感じ始めた人には当然そのようなことを言わなければなりません。これらに混乱を与えるようなものが出てきたのでその立場で言うべきことを言う必要があったのです。
しかし私も縷縷述べている通り一定の要件で写真の援用は是認してますし、tyanさんも「リアリズム追究』的絵画に適応される原則である旨述べています。
例えばorionさんの風景画、三点とも夜景ですがこれを夜スケッしろというほうが無理。写真を資料にしてイメージで仕上げてもなんら文句を言うつもりはありません。要は作品がよければ良い。(ベニスのはいいですね!)ただ例えば昼間の作品の場合などで写真を見ながら描くことを常態しては先の表現的意義、造形的意義で限界があるだろうというのが私らの原則論の立場です。