下 平戸。日本の寺と教会が共存している隠れキリシタンの里平戸の象徴的光景。
≪転載記事1≫
tyanさんのこの辺のお話ちょっと興味を持ったのでIN検索で調べてみました。
この画家の名前は「山田衛門作(えもさく)』と言って、何冊かの本にも書かれたりミュージカルにもなってたり、かなり話題性のある人のようですね。初めて知りました。
そして以下の文でとても面白い部分がありました。
http://www1.ocn.ne.jp/~sho1948y/emosaku.htm
まとめると
〇島原の乱で使われた「軍旗」が「世界三大聖旗』の一つに数えられるものでそれを描いた当人であると言うこと。ただし他の二者が「十字軍遠征」と「ジャンヌ・ダルク」ですのでこれはかなり比較が我田引水気味ですが。
〇それと以下の記述は、どんな戦争にも敵味方間の「連絡係」、「調整係」のようなものが居たという意味で有り得るということ。
≪彼の存在がなければ、原城での四郎軍の実情は世上に知らされることはなかった筈だ。うがった見方をすれば、四郎軍も歴史の生き証人として、彼を指名したのだと考えられないこともない。少なくとも、事実はそうなっている。≫
〇次に個人的なことですが「乱」直前まで彼が住んでいたという「口之津」という町は私の伯父さんが長年町会議員をしていた町で私も何度か行ったことがあります。「乱」の時は全員の村人が参加したそうですが、その面影すらありませんでしたが。
〇最後にこの文には直接書れてはいませんが他の資料で彼を「日本最初の洋画家」扱いしているということ。
うーん、いろんな意味で考えさせられます。
≪転載記事2≫
島原関係で面白い写真が幾つかありましたので後刻アップしたいと思いますが、hidemiさんのお話も私に無縁でないのでちょっと触れたいと思います。実は私の父親も新聞記者を早いうちから辞め、文学を志し多少の実績と著作があります。
しかし一言で言えば「どうしようもない人間」でした。元々そういう資質の人間に家族を含めた社会に対する責任などというものを問う方がおかしいとは100も承知なのですが家族にしてみればこれは理屈ではわりきれないものがあります。
例えばある朝我々家族が住む家の表札が突然剥がされチェーン付きの鍵がかけられ、「文句があるなら弁護士誰それへ連絡を」という貼り紙を貼られたとか、身に覚えのない「訴状」が届いて、自分がいつに間にか被告になっていたとかという経験がある人はそんなにいないでしょう。私がそうです!(大笑い)前者は抵当権より強い質権が実行されたもの、後者は印鑑盗用により損害賠償請求が為されたものです。いずれも我が父親が原因です!
ところでこれは前に書いたことのあるエピソードですがウル覚えなので仔細は違っているかもしれませんが概ねこんな話でした。
≪太宰治は逗留していた旅館の払いを滞っていた。困った旅館の主人が代理弁済を壇一雄に頼んだ。太宰が先輩の井伏鱒二のところへ金を借りに行くというので仕方なく壇が「人質」として旅館に残ることとなった。ところが待てど暮らせど太宰は旅館に戻って来ない。仕方なく壇は「付け馬」付で井伏の家へ行く。ところがビックリ、太宰は呑気に井伏と将棋を指していた。烈火のごとく怒る壇。太宰曰く「待たされた君も辛かっただろうが待たせた俺はもっと辛かった!」チャンチャン!!≫このエピソードがあの「走れメロス」を生んだとか。
そう、作品を残せばよいのではないでしょうか!?
かくほど左様に太宰は「どうしようもない人間」です。怒った壇だって「火宅の人」です。しかし「どうしようもない人間」であることに伴う悲哀や不利益は本人が一番受け止めている。
画家もカラバッジョからゴッホ、ゴーギャン、ユトリロ、どうしようもないヤツは枚挙に暇ありません。
作品を残せばよい。ただその作品にだけは責任を持たなければならない。責任とはウソもハッタリもいい加減さもない、自己の能力の及ぶ限りのものにするということです。それから先の事も本人の力だけではどうにもできない。勝てば官軍、どんな美術史も文学史も話はそこからしか始まらないのです。
≪…自分をも苦しめ周囲の人間をも苦しめで何のうるところもありませんでした。ああ、文学の代わりに絵をやっていたらどんなに良かったろうにとしみじみ思うのですが、一切合財を失うまでそれに気づかなかったのですから、やはり自分が馬鹿だったに違いありません。≫と仰いますが絵も同じですよ。ただ、私の場合自分も他人も苦しめたかもしれないが自分がそれに「救われた」のも事実です。「自分が救われればいいんかい!」という声には「そんなことはデッサンの一枚も買ってから言え、ボケ!」と言ってやる、それくらいでないとこの世界やっていけませんよ。
少なくても無責任でウソとハッタリに満ちたいい加減な国と時代に飲み込まれることなく悔いのない人生がおくれると思いますばい。