中 普賢岳遠望
下 今も不気味に胎動する「雲仙地獄」
Ψ筆者作 「思い出の橋(眼鏡橋)F8 油彩
1991年約200年ぶりに雲仙普賢岳が大爆発し、麓との島原鉄道沿線は大被害を受けた。死者40余名。今は静かな雲仙岳だが遥かに隆起した溶岩ドームが見える。
≪転載記事1≫
前回もそうでしたが話というのはいろいろ関連付けられるもので、先の島原と言えば周知のごとくあの辺いったいは隠れキリシタンの故郷。hidemiさん在住のポルトガル文化もキリスト教伝来にともない本邦と深い関係を持ちます。長崎市に本店のある福砂屋や文明堂のカステラや天麩羅、パンも全部ポルトガル伝来のもの。
因みにルーブルにプッサンの「日本の少女の生命を甦らす聖フランシスコ・ザビエル」という絵がありますが、顔も衣装も全部西洋人というのはまだしも、モヒカン刈りの中国人風には笑ってしまいますが。
ところで先月でしたかNHKの「その時歴史は動いた」で最近オーストリア・ウィーンの図書館で17世紀の日本女性をテーマにしたオペラの台本が見つかったというのを取り上げていました。主人公の女性の名前が「グレイシア(恵み)」といいます。このグレイシアというのが実は、先の島原の対岸にある肥後熊本細川忠興の妻でキリシタンの細川ガラシアのことらしい。
周知のように細川ガラシアは対徳川家康に挙兵した石田三成の人質要求を夫忠興への政治・軍事上の配慮から拒否し39歳で死亡します。キリスト教では自殺は禁止されているので三成軍の包囲の中、忠興の重臣に自らの胸を突かせ火を放たせます。因みに刺したその重臣もその場で切腹します。
焼け跡からガラシアの骨を拾ったのが「バテレン」の神父で、件のオペラは、その神父を通じて伝えられた「ガラシアの殉教」精神をテーマにしたものと思われます。
その時のガラシアの辞世が私が「座右の銘」の一つに載せている≪ちりぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ ≫という唱です。因みに末裔の細川護煕元首相が辞任の時にこれを詠んだそうですが。
その「…花も花なれ…」が私のバラシリーズに繋がっていくわけ…って言い過ぎですが。
以上間繋ぎのご都合主義的因縁話の一席でした。
≪転載記事2≫
信長、秀吉の時代から幕末にかけての西九州の歴史は本当に興味ありますね。私の母方の墓は長崎市内の「寺町」と言われる古いお寺ばかりのところなのですが、付近には大浦天主堂と唐寺の崇福寺、興福寺など、和、洋、中が混在してましたが、こういう寺群の中に教会の尖塔が見えるという光景は平戸でも見え、ブログでその写真をアップしたことがありますが。
因みに私も幼稚園はキリスト教系で園長は外人、家も「鳴滝塾』の傍にありシーボルト亭の庭で遊んでいました。
鎖国日本の中にあって唯一の西洋文化の窓口ということもありますが、天草の乱や江藤新平の佐賀の乱、鍋島藩の「葉隠れ」から唐津や伊万里の陶芸文化などに至るまで、昔のこの辺の人は精神性希求において「ボケーッ」と生きてなかったように思うのですが。…中略…
ともかくモニュメントにおいても私が幼稚園の頃毎日渡っていた、何も知らず欄干に「おしっこ」した重文眼鏡橋、ご指摘の被爆に因み、爆心地近くの浦上天主堂や地元出身北村西望作「平和祈念像」、ローマ法王来訪の折その前で額ずいていたのが印象的だった、秀吉によ処刑された26聖人像、被爆マリア像など数多ありますね。
http://www1.odn.ne.jp/tomas/hibakuseidou.htm
マリア像と言えば先の「混在」にも因み「マリア観音」というのはtyanさんも描かれていたのではないですか?
先にのべた「幻の邪馬台国」では宮崎康平はそのあった場所を島原半島であると推測し、自分の故郷と一致してしまったことを我田引水と思われることを残念がっていたようです。因みにそれは最近古墳の出土状況から「畿内説」が優勢のようですが。
『絵画事始』が「蘭学事始」(因みにこれは杉田玄白。新井白石は『西洋紀聞」)から来てることに気づいていただいて嬉しいです。坂本竜馬の「亀山社中」も長崎で結成されたものですし幕末も話題豊富ですね。
いずれにしろ一度は落ち着いてその歴史と文化を勉強したい所ですが…。