≪私は自然・風景や動物が好きである。なぜならそれにはウソがないから。ハッタリも駆け引きも虚飾も打算もない。前にどこかで書いたが人の人生の価値とはどれだけ多くの真実に出会ったか、その「分量」によるものではないかと思う。
 我々の周りは政治・経済からマスコミ文化、市民社会にいたるまで、凡そ世界は「ウソ」に満ちている。だからそこに埋没していると真実に出会えない。価値のない人生でしかなくなるのだ。此処に芸術・文化の意義がある。我々は優れた芸術作品に接し、それを通じて芸術家の「思想」を知ることができる。この場合の「思想」とは勿論、政治や社会科学、宗教、哲学など「イデオロギー」として理論的に体系化されたものばかりではない。継続的にあるいはその都度、自我の生きる意味と真実にため誤魔化さずに人生と向き合う姿勢であり、自我が存在している世界や事象の「解釈の仕方」である。芸術とはそうした「問題意識」を創造と言う形で具現化したものに他ならないと言える。美意識、価値観、死生観など全部思想である。中略…芸術を愛する者は、こういう真実を求める姿勢ゆえに、覚醒した精神、曇りなき眼力を持っている。それは世界に満ちた理不尽や不合理やインチキを看破するだろう。時代に諂い、芸術を物質の下位に据え、平和すらも金で買えると思っている近視眼的エセ文化も完全に識別できるだろう。≫


 上記記事は昨年の今頃私が書いたものである。以下の記事は本年8月30日、版画家山本容子が朝日新聞紙上で述べた言葉である。
 一脈通じる趣旨なので援用したい。特別なことを一段高い所から言ってるわけではない。ことは「当たり前」のことであり、「創造」の前提ともいえるようなことであり真の創造者は誰もが考えることであるが、これは創造に携わる者に限られない、一度しかない人生に「自分自身の思想や価値体系やメティエ(なりわい)」を持つことの意義を語ったものであり、今この時代に大事と思えるようなことだ。 

≪人の目に留まるほど力が抜きん出る仕事人は、必ず土台が確かなものだと思います。自分が成そうとする仕事の世界や既成概念を知り尽くさなければ、つまり何が新しいかのか、どこが美しいのか分らない。だから懸命に学ばなければ、次のステップへ旅立つことができない。…中略…アーティストは「意味の所在を絶対に知らなくてはならない」(括弧付け筆者・以下同じ)のです。乱暴な言い方をすれば、上手に描いてあろうが下手であろうが、そんなことは全く関係がない。それはただの結果であって、そこにいたるまでの過程がどれほど面白く、意味を見つけ出してくることがどれほど美しいか。…中略…だからアーティストは技術も磨かなくてはならなりませんが、新たな美を世に問うために。今までの既成概念を知り、コモンセンスの美学に代わってそれを突き放す「ナンセンス」の美学が必要になります。絵描きとはそういうヒリヒリした仕事です。既成の作品や過去から私たちに引き継がれてきたものは、とても重要です。…中略…また、商業的には採算ベースに乗らないと言われる作品や批評の中にも、優れたものが数多くあります。何千部くらいしか発売されない詩集や評論集など。コアな読者しか読まないけど出版されなければならない作品があります。それは、時代を研ぎ澄ました感覚で残していくからです。そういう希少な作品が消えていくのはいかにも残念です。マスコミやコマーシャリズムにも責任の一端はあるでしょう。「みんな、必要なものを知るコモンセンス、常識の学び方が足りない、何が大切かを見抜けなくなってます。」若い人たちにとっては、わかりやすい、露出量が多い、名が売れていると言ったことが正しい美のように伝わっていく。その情報の波をかいくぐって、片隅で小さく光り輝く美に気づくことは絶望的なのかもしれません。それでも、アートの世界にいる私は、これからも若い人に伝えたい。「最大公約数に目を奪われるな。」世界に存在するものはみな等価値であり、そのクオリティー質の違いを「自分で味わうため」存在するのだと。≫

 私なりの補足をすれば「コモンセンス」とはいわゆる「常識」に限られず、おかしなものは素直におかしいと言える覚醒した精神、「自分の言葉で語れる自分の思想」、など、生来ヒトとして持つべき当たり前のことまでと解釈したい。当たり前のものが当たり前でない、そういう時代だ。
 最近、「もはや手遅れ」も含め、いろいろ能書き言う前にこの辺のとこからやり直したら?と思えるようなものに幾つか出くわした。気づかないのも確信犯も本人の問題なので結構だが、「大衆迎合」や「日常性埋没』の土壌に自己の思想や創造力が開花するはずがない。