このブログを廃止し掲示板も卒業することにした。YAHOOの「芸術・文化」に係るコミニュティーからは足を洗い別途ブログを立ち上げようと思っている。もとよりIN上のコミニュティーに実質的な芸術・文化的意義や機能を過度に期待すると言うことの方が無理かもしれないが、自分なりの理想は希求したい。そうでなければ名実ともに無駄な時間を過ごすことになる。今までも人や事象や中身の伴わない話だけのものなどひとたび「縁がない」と判断したら早めの見切りをつけてきた。そうして後悔もなかったし概ねの誤りもなかったと言える。勿論移転しても更新は必要だし理想に近いものに出会えるという保証はないが、それがここを続けるという理由にもならない。
ともかく希望のない惰性はいけない。自分が何を疎ましく思い、何に限界を感じたのか、それをこの機会にまとめることは対INに留まらない、自我の日頃の存念の整理にもなる。それにそのあたりをまとめておかなければ意義ある別ブログも立ち上げられないだろう。また同じ事を繰り返すことになる。当文はそのための覚え書きである。公開としたのはその辺について今後の新ブログ運営上の都合を考慮したためである。「心あたり」ある者は来ることはないだろう。
さて、あるベテラン画家がそのブログにアップしていた作品を見た。田舎っぽい田園風景の、道らしきものに沿って洗濯物が干してあるという、唯それだけの情景を絵にしたものであるが、ピサロやシスレー、モネあたりの印象派の作品を想起させるような趣の好作である。主人公と言えば強いて言うならその洗濯ものだ。実はこういうなんでもない絵のほうが「恐い」。画家の真の力量とはさりげなくそういうものに現れるからである。先ず絵画としての隙のない完成度に注目させられる。次によくこれだけのなんでもないモティーフを「絵にした」ものだという思いを持たされる。この「絵にする」ということこそが画家の「力量」を語るものなのだ。言い換えると力量がなければこういうテーマを絵にすることができない。気負いも背伸びもない「絵の強さ」、骨太さもその力量の為せる技だ。
底流に、構成やフォルムの安定、色彩やヴァルールのバランス、マティエールの重厚さ等、私が便宜上「アカ造」(※下欄参照)と呼んでいるものの的確な処理がなければならないが、それには油彩と言う素材を熟知しこなせるだけの技術・経験が必要であり、いずれも昨日や今日の修練や付け焼刃の手練手管ではどうにもなるものではない。更にもっというなら、創造の主体たる「自我」の「思想」とも関わってくるのだがこれは後述する。
見応えある絵画とは、仔細に分析をすれば必ず結果的にその「アカ造」の処理がうまくいっているものだ。それに破綻や危うさやアンバランスのないものこそが観るものに快さや感銘や桎梏のないメッセージ性を与えるからである。これは古典から現代美術に至るまで変わらない真理である。「アカ造」=技術修練とは、古今東西繰り返されてきた、その「結果」から帰納的に導かれた合理的アプローチ法であり、それ故にいくつもある絵画的価値への向かう選択肢の一つというものでもない。初めに技術論ありきではないのである。
先のなんでもないモティーフを絵にするという力量も底流にこれらに関する半端でない修練があったればこそのものである。絵とは誠に恐いものでそういうものの存否は見るものが見れば一瞥、一瞬にして看破される。例えば公募展などの審査でも同じで、≪入落≫の段階では審査員が時間をかけじっくりその価値を判断するということはない。それこそ一瞥、一瞬、アッという間で決まる。いろいろな能書きは全く通用しない。
件のコミニュティーなどもそうだったが、この辺のところが判ってないで本末転倒し、「デッサン」に代表される「アカ造」を軽蔑し、やたらに「自由」だ「感性」だ「個性」だとファジーなものに逃げ込む傾向は根強いが、自由や個性は絵画芸術には大事なことだが、それを口にするのは「十年早い!」との感慨を持つことが多い。形やスタイルや理屈から入ったり、背伸びしたりしているだけのものは必ず限界や破調を晒すことになる。
因みに公募展と言えば、以前からそのけれんみない造形姿勢とキャパシティーに注目して女性がいた。最近当該コミニュティーでその人について私は≪将来必ず自分の絵画世界を築き、実績を残す描き手でなるであろう≫といったような趣旨の「予言」をした。時を経ずしてその人が某公募展で初出品、初入選を果たしたと知った。私は自分の先見の明を誇るつもりはない。作品の価値、無価値はおおよそにおいて客観的に明らかであり、それへのアプローチに邪道は通じていない。それを証明してくれたこともうれしい。
ところで私はよく、時に自戒を込めて≪蟹は己が甲羅に合わせて穴を掘る≫という言葉を使う。これは何事も自己の器や尺度をなどを基準にしてものの価値を計るという偏狭で近視眼的なご都合主義のことだ。有史以来「創造行為」は人類の根源的、本能的営みであった。絵画芸術はその脈絡にあり、先達の模索と苦難を伴いながら営々として積み重ねられてきたものなのである。先達が美術史として作り上げたそれは様々の美と感動に満ちている。それが安易な手練手管や思いつきや偶然の所産でないことをその画家の造形思想、高度な技術、それを得んがための並でない努力、技術論、素材論などその波乱に満ちた人生とともに畏敬の念を持って感じさせられる。
凡そ芸術と呼ばれるものには、その相当の価値に至るために相当の覚悟と相当の努力が必要ということは音楽や文学等他のものにも共通したものであろう。
然るに我々がひとたびその道を志したなら、その自由と純粋さと理想を求め、より高い次元への自己開発に切磋琢磨するのは当然のことであり、一度しかない人生の意義と自他供に係る責任の処し方とさえ言えるものであろう。件のコミニュティーにそういう志あるものが何人いたであろうか?!
断っておくが私は絵画芸術について、それは資質や才能に恵まれた一握りのエリートのみが扱う高尚な世界であるから優勝劣敗の排除の論理で語れといっているのではない。現に洋画の世界ではグランマ・モーゼスやアンリ・ルソーなどの「ナイーフ派」や山下清なのの知的障害のあるものなど絵画的価値のあるものは十分にその地位が得られるなどその世界の懐の深さを示しているのである。
問題は絵画芸術へ向かう姿勢ということである。自由で純粋で、謙虚にその価値や理想を希求し、時に自己開発に練磨するということ、そうすればいろいろな傾向、レベルにおいてそれぞれに道は開け得るということだ。
プリミティヴな美を感ずる心、絵にしたいというモティベーションや結果として現れた作品に通うものに「プロ・アマ」の違いがあるわけではない。向かうところ、歩く道は同じなのだ。出来不出来、巧拙は仕方がない。次から次にテーマや自己開発の要を感ずるのもそれぞれの次元で生じることである。繰り返すが要はその姿勢。
ただウソやハッタリや邪道や俗臭紛々たる価値体系がそういう世界にもっともらしい顔をして、介入、混入してくることは排除しなければならない。
先に述べた「蟹の甲羅」の穴に首まで浸かって、絵画芸術という大海を語るという、不遜な者ら、何回言っても反省のないものらとは供に天を戴くことはできない。
(つづく)
※≪アカ造≫
フォルム、トーン(調子、グラデーション、最近では「色幅」って言ってますね)、立体感、量感、質感、ヴァルール、これに色彩、マティエール、構成・構図等を加えて、これらは「古典派」に限らず絵画全般にわたる重要な要素ですが、とりわけ古典派傾向の絵ではこれらの処理が死活問題となります。私はいちいちこれらを羅列するのが面倒なので「アカデミックな造形要素」=アカ造と略してます。
ともかく希望のない惰性はいけない。自分が何を疎ましく思い、何に限界を感じたのか、それをこの機会にまとめることは対INに留まらない、自我の日頃の存念の整理にもなる。それにそのあたりをまとめておかなければ意義ある別ブログも立ち上げられないだろう。また同じ事を繰り返すことになる。当文はそのための覚え書きである。公開としたのはその辺について今後の新ブログ運営上の都合を考慮したためである。「心あたり」ある者は来ることはないだろう。
さて、あるベテラン画家がそのブログにアップしていた作品を見た。田舎っぽい田園風景の、道らしきものに沿って洗濯物が干してあるという、唯それだけの情景を絵にしたものであるが、ピサロやシスレー、モネあたりの印象派の作品を想起させるような趣の好作である。主人公と言えば強いて言うならその洗濯ものだ。実はこういうなんでもない絵のほうが「恐い」。画家の真の力量とはさりげなくそういうものに現れるからである。先ず絵画としての隙のない完成度に注目させられる。次によくこれだけのなんでもないモティーフを「絵にした」ものだという思いを持たされる。この「絵にする」ということこそが画家の「力量」を語るものなのだ。言い換えると力量がなければこういうテーマを絵にすることができない。気負いも背伸びもない「絵の強さ」、骨太さもその力量の為せる技だ。
底流に、構成やフォルムの安定、色彩やヴァルールのバランス、マティエールの重厚さ等、私が便宜上「アカ造」(※下欄参照)と呼んでいるものの的確な処理がなければならないが、それには油彩と言う素材を熟知しこなせるだけの技術・経験が必要であり、いずれも昨日や今日の修練や付け焼刃の手練手管ではどうにもなるものではない。更にもっというなら、創造の主体たる「自我」の「思想」とも関わってくるのだがこれは後述する。
見応えある絵画とは、仔細に分析をすれば必ず結果的にその「アカ造」の処理がうまくいっているものだ。それに破綻や危うさやアンバランスのないものこそが観るものに快さや感銘や桎梏のないメッセージ性を与えるからである。これは古典から現代美術に至るまで変わらない真理である。「アカ造」=技術修練とは、古今東西繰り返されてきた、その「結果」から帰納的に導かれた合理的アプローチ法であり、それ故にいくつもある絵画的価値への向かう選択肢の一つというものでもない。初めに技術論ありきではないのである。
先のなんでもないモティーフを絵にするという力量も底流にこれらに関する半端でない修練があったればこそのものである。絵とは誠に恐いものでそういうものの存否は見るものが見れば一瞥、一瞬にして看破される。例えば公募展などの審査でも同じで、≪入落≫の段階では審査員が時間をかけじっくりその価値を判断するということはない。それこそ一瞥、一瞬、アッという間で決まる。いろいろな能書きは全く通用しない。
件のコミニュティーなどもそうだったが、この辺のところが判ってないで本末転倒し、「デッサン」に代表される「アカ造」を軽蔑し、やたらに「自由」だ「感性」だ「個性」だとファジーなものに逃げ込む傾向は根強いが、自由や個性は絵画芸術には大事なことだが、それを口にするのは「十年早い!」との感慨を持つことが多い。形やスタイルや理屈から入ったり、背伸びしたりしているだけのものは必ず限界や破調を晒すことになる。
因みに公募展と言えば、以前からそのけれんみない造形姿勢とキャパシティーに注目して女性がいた。最近当該コミニュティーでその人について私は≪将来必ず自分の絵画世界を築き、実績を残す描き手でなるであろう≫といったような趣旨の「予言」をした。時を経ずしてその人が某公募展で初出品、初入選を果たしたと知った。私は自分の先見の明を誇るつもりはない。作品の価値、無価値はおおよそにおいて客観的に明らかであり、それへのアプローチに邪道は通じていない。それを証明してくれたこともうれしい。
ところで私はよく、時に自戒を込めて≪蟹は己が甲羅に合わせて穴を掘る≫という言葉を使う。これは何事も自己の器や尺度をなどを基準にしてものの価値を計るという偏狭で近視眼的なご都合主義のことだ。有史以来「創造行為」は人類の根源的、本能的営みであった。絵画芸術はその脈絡にあり、先達の模索と苦難を伴いながら営々として積み重ねられてきたものなのである。先達が美術史として作り上げたそれは様々の美と感動に満ちている。それが安易な手練手管や思いつきや偶然の所産でないことをその画家の造形思想、高度な技術、それを得んがための並でない努力、技術論、素材論などその波乱に満ちた人生とともに畏敬の念を持って感じさせられる。
凡そ芸術と呼ばれるものには、その相当の価値に至るために相当の覚悟と相当の努力が必要ということは音楽や文学等他のものにも共通したものであろう。
然るに我々がひとたびその道を志したなら、その自由と純粋さと理想を求め、より高い次元への自己開発に切磋琢磨するのは当然のことであり、一度しかない人生の意義と自他供に係る責任の処し方とさえ言えるものであろう。件のコミニュティーにそういう志あるものが何人いたであろうか?!
断っておくが私は絵画芸術について、それは資質や才能に恵まれた一握りのエリートのみが扱う高尚な世界であるから優勝劣敗の排除の論理で語れといっているのではない。現に洋画の世界ではグランマ・モーゼスやアンリ・ルソーなどの「ナイーフ派」や山下清なのの知的障害のあるものなど絵画的価値のあるものは十分にその地位が得られるなどその世界の懐の深さを示しているのである。
問題は絵画芸術へ向かう姿勢ということである。自由で純粋で、謙虚にその価値や理想を希求し、時に自己開発に練磨するということ、そうすればいろいろな傾向、レベルにおいてそれぞれに道は開け得るということだ。
プリミティヴな美を感ずる心、絵にしたいというモティベーションや結果として現れた作品に通うものに「プロ・アマ」の違いがあるわけではない。向かうところ、歩く道は同じなのだ。出来不出来、巧拙は仕方がない。次から次にテーマや自己開発の要を感ずるのもそれぞれの次元で生じることである。繰り返すが要はその姿勢。
ただウソやハッタリや邪道や俗臭紛々たる価値体系がそういう世界にもっともらしい顔をして、介入、混入してくることは排除しなければならない。
先に述べた「蟹の甲羅」の穴に首まで浸かって、絵画芸術という大海を語るという、不遜な者ら、何回言っても反省のないものらとは供に天を戴くことはできない。
(つづく)
※≪アカ造≫
フォルム、トーン(調子、グラデーション、最近では「色幅」って言ってますね)、立体感、量感、質感、ヴァルール、これに色彩、マティエール、構成・構図等を加えて、これらは「古典派」に限らず絵画全般にわたる重要な要素ですが、とりわけ古典派傾向の絵ではこれらの処理が死活問題となります。私はいちいちこれらを羅列するのが面倒なので「アカデミックな造形要素」=アカ造と略してます。