さて今度は受け手の側に立って、姜の「ニヒリズム」から自論を展開させると、そのニヒリズムは以下のメカニズムを持つ。

 情報価値の均一化→自我において思想や人生のテーマの不在→ニヒリズムなりの保守化→「逆切れ」

 先に「メディア自体が情報の価値体系を喪失している」と述べたが、姜も言っていたが、受け手の側も価値の優先順体系がない。安保も中東もテポドンも靖国も中田も亀田も「秋葉原文化」も彼らにおいては全部同じ比重を持つ。正確に言えば優先順位はある。ところがその優先順位は刹那的、快楽的、趣味的、自己の体温に見合う「温度」があるものを優先。思想とかメティエとか人生のテーマとか自己啓発とかに関わるという意味では比重を持たない情報なのだ。これが情報の均一化。
 「ヒートアップとクールダウン」で挑発され、その本質や実体が隠蔽された短いサイクルの情報の洪水に晒され、それでなくてもとかく「群れたがる」国民性もあり、だんだん逆にそれへ順応していかなければ時代に取り残されるような気になり、その繰り返しうちに、受身で思想も主体性もない人格が形成されるということをニヒリズムと言ったのだろう。
 
 最後はニヒリズムなりの保守化についてである。再び姜によれば、フリーターやニート、ひきこもりなど生産社会や常識的市民社会体系からはアウトサイダーであったり、ドロップアウトした人間に、本来自分たちの「墓掘り人」であるはずの現体制を支持するという「珍現象」が見られるということ。「墓掘り人」とは、本来自分たちを差別し、排除し、不利益を与える側の人間という意味である。キャスターの小西克哉も、超保守政権であるアメリカのブッシュ政権を「プアー・ホワイト」と呼ばれる貧困階層の一部が支持しているという側面があるとの同意。

 これについては先ごろ興味ある事件があった。一つは奈良の「母子放火殺人事件」。もう一つは大阪の「母撲殺事件」である。犯人はいずれも言うところの一流高校・大学に在籍する「優等生」。前者は両親とも医者の「エリート一家」。後者は兄弟みんな「一流大学」この社会的格付けがプレッシャーとなったことも事実だろが、もう一つありそうだ。前者においては犯行後、他人の家に上がり込みなんとテレビをつけサッカーWカップを見ていたという。そして冷蔵庫から勝手にジュースを出して飲み、おまけにその代金をちゃんと500円だか置いていたという。
 異常な精神状態でもあり説明つかない行動であるが、この異常な「価値の優先付けの倒錯」をどうみればよいのか?前者は勉強のこと後者はパチスロ狂いの日々を詰問されたことによる逆上反抗らしい。

 前に述べた図式で言うと、先ず彼らを支配していたのはニヒリズムである。自己において何某かの自己啓発に係る意思も目的感もない、人生にテーマも見出せない、思想もない、これらを克服できる何かの特別な才能もなかったと判断できる。しかしサッカーやパチスロなどの趣味的、快楽的、刹那的安定感、自己の体温と「温度差のない日常性」は守りたい、それを批判攻撃してくるものには異常に反発する。「逆切れ」だ。
 先の「墓掘人」支持や「プアホワイト」の保守も、自己の真に受け皿となるものがない反面、体制が自己のニヒリズムの守り手であるかのごとき錯覚を感じるからではないか。ことは特別なことではない。その「素養」自体は市民社会全般に日常的に潜んでいるということだろう。事実彼らは昨日まで「善良な市民」だったのである。

 「逆切れ」に因み言えば、そういう自己のニヒリズムや保守性や通俗性や創造力の不在を突かれた時の反応はこのIN上のコミニュティーでも見られる。特定の「思想」への反論なら「自らの思想」をもって為すべきだろう。ところが自我に「思想」がない。自我の「日常的価値体系の秩序」を基準にしているだけだ。だから搦め手からのレッテル貼りや人格攻撃で「反撃」する以外にない。

 私は「真の文化・芸術の価値」というのは、自我に係るは何某かの問題意識からは生まれるではないかと思う。言い換えると「自我の存在について自ら出す回答の形式」である。つまり主体的なものだ。マスメディアなど外部から与えられ吹き込まれるものではない。「集団性への帰属」とは何某かの安全と自己満足は担保されるだろうがそういうものからは文化は生まれない。またそれは「問題意識」から始まるので「現状を良し」とする保守の思想からはうまれない。現状が良いならわざわざ文化など必要がないからだ。
 少なくても大衆が「マスコミ文化価値」で「ヒートアップ」している間はエスタブリッシュはやりたいことをやりたいようにできる。