普通「世界への道」はプロテスト受験からはじまる。合格してプロのライセンスを取り始めてプロとなる。刺青はダメ、受験すらできない。カタギとケンカしたらライセンスは剥奪される場合もある。それから4回戦、6,8,10、メーンイヴェンターと進む。タイトルも東西日本、全日本新人王、ランキング入り、日本、東洋・太平洋、世界と進む。ただアマチュアなど実績と実力が認められるものは相撲と同じよう特別な扱いを受ける選手もいる。具志堅用高らがそうだ。
多くはみんなアルバイトをしたりジムの寮で寝食したりして「栄光」を目指す。高校野球も「甲子園」が総てではあるまい。こうしたことを含めてスポーツなのだ。
ちょっと話はそれるが、以前E・タウンゼントの最後の弟子で2階級を制覇した井岡弘樹が交通事故のトラブルに巻き込まれ、相手からボコボコに殴られたことがある。もし井岡がその気になって殴り返したらおそらく相手は殺されていただろう。井岡はジッと耐え殴られるままにしていたという報道があった。これは結果の怖さを知っていたということとプロとしての自覚のなせることだ。
当時はまだ無名の鈴木石松(ガッツ石松)の身内が何かのトラブルに巻き込まれて「その筋」のものらから追いかけられたということがあった。現場も知っているが都内某所の路上である。石松は一人で8人ほどの「ケンカのプロ」をKOした。ところが逆に石松の方が「暴力行為」の現行犯で逮捕されたのである。石松は「俺は止めに入っただけ」主張した。翌日の新聞も石松の言い分を支持していた。「プロのボクサーが本気で殴ったら鼻の骨はグシャグシャ、耳ははブラブラ、警察はそういうことを斟酌すべき」と言うような趣旨だった。
私は子供の頃からボクシングは、身のほど知らずだが自分でもやりたいと思いジムを見学に行ったほど、そのスポーツとしての純粋さとフェアさを比較的信用できるものとして好きだったが、そればかりではなくこうした、時代時代の日本の状況と軌を一にした、個々の人間的レベルでも、言うところの「社会の底辺部」で、いろいろな意味で自己を強くしたいと真摯に思う若者が、自己を律し、ハングリー精神を抱え、それぞれの人生をひきずった栄光と挫折、転落のドラマに満ちた文字通り血みどろの「ガチンコスポーツ」と思えたからなのである。
昔不良とかヤクザだったものがボクシングというスポーツを通じて更正したと言う話は外国を含めいくつもある。バズーソー山部とかトラッシュ中沼と言う世界挑戦の経験あるボクサーは「少年院出身」。トラッシュとは「くず」と言う意味。中沼は自分にボクシングがなかったなら「人間のくず」だったと言う「自虐的」意味でつけたリンングネームと言う。
勿論スポーツである以上チャンピオンの肩書きなどの栄光を求め、何某かの結果を出すことは当然であり目指すべきである。しかしそれ以前に純粋なスポーツとしての意義や強くなろうとする努力の過程など、大事なのはその中身であろう。
詩人の寺山修二などもこうしたボクシングの人間ドラマに魅せられた一人。それは芸術にも通じる何かがあるのかもしれない。
学生の頃に「あしたのジョー」と言う漫画があった。「時代がヒローを求めていた」などとありふれた文化論を言うつもりはないが、少なくてもヒローは漫画の世界に留まっていたのである。
ところがヒローのデッチ上げは現実のもの。というより今は世の中自体が「漫画化」。
こうした視点であの「亀田戦」を見た場合、縷縷述べた事情を多少とも知っている本当のボクシングファンにとって、それがいかに商業主義で「作られた」、インチキ臭い、不純な、我慢ならないものと感じられたことか。これはボクシングとかスポーツとかいうものへのある種の冒涜である!6万余の抗議はその証左である。現役選手でも、現役世界チャンピオンの徳山やイーグル・京和などが「本当のボクシングを教えてやる」と亀田との対戦を希望しているらしい。
断っておくが私は亀田本人が嫌いなわけではない。彼なりに純粋なのかもしれない。ボクシングより先に社会に通用する口のきき方から勉強しろなどという分別めいたことも言うつもりはない。放っておいても本当にに実力があればちゃんと結果を残すだろう。悪いのはメディアと周辺である。
しかしボクシングをちょっと知ってる人ならい亀田がそんなに「強いわけがない」と素朴な疑念を持つはず。先ずあの尖ったしゃくれた顎、表面積の広い骨格、細く長い首、最もパンチを受けやすい、ダメージを受けやすいタイプだ。強いボクサーのタイプとは顔が小さく首が太く、相手のパンチを吸収するタイプ。果たして初回見事にダウンを食らった。あれがハードパンチャーのものだったらそれで終わりのはずだ。亀田は明らかに負けていた!
次にその巧妙なマッチメイキング。弱い東洋の出稼ぎボクサーに始まり、経歴・肩書きこそあるが既に峠を過ぎたB、C級クラスの世界ランカー、タイトルを賭けた相手も現役バリバリの世界チャンピオンではなく既に現世界チャンピオン新井田に負けたことのあるその意味で評価の定まった相手との「王座決定戦」。
そして今早くも年末の再戦が噂されている。どうせTBSとしては「今度こそ≪意地を見せるか(最近の流行り言葉)≫!?因縁の対決!!」とか銘うってもう一儲けできるぐらいの感覚だろうし結果も似たようなものだろう。しかしいかにTBSなどが「それはそれでゼニネタになるとほくそ笑もうとも、その後も「亀田」をめぐる騒動は本日9日時点でも収まらない。その胡散臭さを指弾する声は、サッカーのバカ騒ぎがその中身をケロッと忘れていつの間にか「頭突き事件」にニュースヴァリューが移って行ったのとは違う「健全さ」を感じる。
(つづく/ボクシング関係はおわり)
多くはみんなアルバイトをしたりジムの寮で寝食したりして「栄光」を目指す。高校野球も「甲子園」が総てではあるまい。こうしたことを含めてスポーツなのだ。
ちょっと話はそれるが、以前E・タウンゼントの最後の弟子で2階級を制覇した井岡弘樹が交通事故のトラブルに巻き込まれ、相手からボコボコに殴られたことがある。もし井岡がその気になって殴り返したらおそらく相手は殺されていただろう。井岡はジッと耐え殴られるままにしていたという報道があった。これは結果の怖さを知っていたということとプロとしての自覚のなせることだ。
当時はまだ無名の鈴木石松(ガッツ石松)の身内が何かのトラブルに巻き込まれて「その筋」のものらから追いかけられたということがあった。現場も知っているが都内某所の路上である。石松は一人で8人ほどの「ケンカのプロ」をKOした。ところが逆に石松の方が「暴力行為」の現行犯で逮捕されたのである。石松は「俺は止めに入っただけ」主張した。翌日の新聞も石松の言い分を支持していた。「プロのボクサーが本気で殴ったら鼻の骨はグシャグシャ、耳ははブラブラ、警察はそういうことを斟酌すべき」と言うような趣旨だった。
私は子供の頃からボクシングは、身のほど知らずだが自分でもやりたいと思いジムを見学に行ったほど、そのスポーツとしての純粋さとフェアさを比較的信用できるものとして好きだったが、そればかりではなくこうした、時代時代の日本の状況と軌を一にした、個々の人間的レベルでも、言うところの「社会の底辺部」で、いろいろな意味で自己を強くしたいと真摯に思う若者が、自己を律し、ハングリー精神を抱え、それぞれの人生をひきずった栄光と挫折、転落のドラマに満ちた文字通り血みどろの「ガチンコスポーツ」と思えたからなのである。
昔不良とかヤクザだったものがボクシングというスポーツを通じて更正したと言う話は外国を含めいくつもある。バズーソー山部とかトラッシュ中沼と言う世界挑戦の経験あるボクサーは「少年院出身」。トラッシュとは「くず」と言う意味。中沼は自分にボクシングがなかったなら「人間のくず」だったと言う「自虐的」意味でつけたリンングネームと言う。
勿論スポーツである以上チャンピオンの肩書きなどの栄光を求め、何某かの結果を出すことは当然であり目指すべきである。しかしそれ以前に純粋なスポーツとしての意義や強くなろうとする努力の過程など、大事なのはその中身であろう。
詩人の寺山修二などもこうしたボクシングの人間ドラマに魅せられた一人。それは芸術にも通じる何かがあるのかもしれない。
学生の頃に「あしたのジョー」と言う漫画があった。「時代がヒローを求めていた」などとありふれた文化論を言うつもりはないが、少なくてもヒローは漫画の世界に留まっていたのである。
ところがヒローのデッチ上げは現実のもの。というより今は世の中自体が「漫画化」。
こうした視点であの「亀田戦」を見た場合、縷縷述べた事情を多少とも知っている本当のボクシングファンにとって、それがいかに商業主義で「作られた」、インチキ臭い、不純な、我慢ならないものと感じられたことか。これはボクシングとかスポーツとかいうものへのある種の冒涜である!6万余の抗議はその証左である。現役選手でも、現役世界チャンピオンの徳山やイーグル・京和などが「本当のボクシングを教えてやる」と亀田との対戦を希望しているらしい。
断っておくが私は亀田本人が嫌いなわけではない。彼なりに純粋なのかもしれない。ボクシングより先に社会に通用する口のきき方から勉強しろなどという分別めいたことも言うつもりはない。放っておいても本当にに実力があればちゃんと結果を残すだろう。悪いのはメディアと周辺である。
しかしボクシングをちょっと知ってる人ならい亀田がそんなに「強いわけがない」と素朴な疑念を持つはず。先ずあの尖ったしゃくれた顎、表面積の広い骨格、細く長い首、最もパンチを受けやすい、ダメージを受けやすいタイプだ。強いボクサーのタイプとは顔が小さく首が太く、相手のパンチを吸収するタイプ。果たして初回見事にダウンを食らった。あれがハードパンチャーのものだったらそれで終わりのはずだ。亀田は明らかに負けていた!
次にその巧妙なマッチメイキング。弱い東洋の出稼ぎボクサーに始まり、経歴・肩書きこそあるが既に峠を過ぎたB、C級クラスの世界ランカー、タイトルを賭けた相手も現役バリバリの世界チャンピオンではなく既に現世界チャンピオン新井田に負けたことのあるその意味で評価の定まった相手との「王座決定戦」。
そして今早くも年末の再戦が噂されている。どうせTBSとしては「今度こそ≪意地を見せるか(最近の流行り言葉)≫!?因縁の対決!!」とか銘うってもう一儲けできるぐらいの感覚だろうし結果も似たようなものだろう。しかしいかにTBSなどが「それはそれでゼニネタになるとほくそ笑もうとも、その後も「亀田」をめぐる騒動は本日9日時点でも収まらない。その胡散臭さを指弾する声は、サッカーのバカ騒ぎがその中身をケロッと忘れていつの間にか「頭突き事件」にニュースヴァリューが移って行ったのとは違う「健全さ」を感じる。
(つづく/ボクシング関係はおわり)