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「分かれ道」F20 油彩
「裏通り」F10 油彩
一部の傾向を除き、絵画作品とは「モティーフをフィルタ-たる自我を透過させて再構成した世界」という意義がある。そのフィルターの性質により同じモティーフでもいろいろな違いが出て来るのは当然の事。
そういう意味では風景画は最もストレートにその結果が現れやすい、というよりその成否の具合そのものが風景画としての価値や魅力を左右するといっても過言でないくらいだろう.
フィルターの性質とは資質や感覚、造形思想など、描き手の属人的要素のこと。それらによりモティーフは解釈され、抽象(本来の意)され、編集され、再構成される。面白いもので、古典派など同じ厳格なアカデミックな造形手続きを踏んでも違った作品になるというのもそのフィルターの違いによる。
しかしそれは常に違ったものになるというものでもない。個々の描き手に内在する資質や感覚と同種のものを他人に見る、あるいは他人から眠っていたものが覚醒させられるという場合もある。それを先達の作品などに見る場合を「造形的オマージュ」といってもよいだろう。
ところで≪Hommage≫とは「1.尊敬、敬意 2.献上 3.忠誠 」などと言う意味があるフランス語。 「我が作品を~ に捧ぐ 」と言うような場合にも使う。これに造形的意味を加えるなら「共感」、「憧憬」、「傾倒」からそれに基づく「追体験」のようなものにまで敷衍されるだろう。
例えば以下のティツィアーノの「ウルビノのヴィーナス」とマネの「オランピア」を比較すると、マネには尊敬の意味の「オマージュ」という感情はなかっただろう。あったのは、陰影を極端に省くという独自画法の確立のため、構図や大胆な色面の対比等についてのシビアな純造形的共感であったと言うべきだろうがその「借用}もやはり「造形的オマージュ」と呼んでも良いものと思う。
http://www.artchive.com/artchive/T/titian/titian_venus_of_urbino.jpg.html
http://www.artchive.com/artchive/M/manet/manet_olympia.jpg.html
この種のものは枚挙にキリがないし、誰にでも起こりうる自然なことである。他人の「価値」を自我にも取り入れたいと思うのは同時に自我に元々その「価値」の成分があったから感じることであり、また技術的裏づけがなければ取り入れることはできない。「模写」と言う作業は、そういう意味の確認であったり、可能にすための修練であったり、追体験による技術的向上を図ったり人によりいろいろなそういう意味の意義がある。
ところで上記作品は総てオリジナル作品であり模写ではない。,魯灰蹇爾領个豊△郎看賤柑阿痢屮僖蠅離泪謄エール」(実際はパリではないが)には画法は違うがユトリロが描いた場所と同じ場所に、それぞれ「追体験」をしたいという思いを持って描いたものである。それぞれ画風が違うが私の内部では繋がっている。「以下の「オーヴェールの教会」もそれぞれそうだ。
http://blogs.yahoo.co.jp/asyuranote/22465646.html
[ひたすら内側を掘り起こしていく」ということだけでなくたまには「外側から攻めていく」ということも自分自身の造形世界の確認・構築には必要であろう。それが「先達に学ぶ」ということである。
因みに最近話題となり「オマージュ」をちょっとした流行語にした例の盗作事件の「オマージュ」とはどういうものか?先ず「外国の、それも余り有名でない作家の作品をパクッてもわかりはしないだろう」というものなら、上記の「尊敬・敬意」どころかそれとは正反対の創造者以前に人間として卑しい行為である。もし「傾倒・共感・憧憬」の意味なら、基本的には自らの造形性下にそうしたものを覗かせる、あるいはそれらが我がものとして「創造的展開」をしめしたものになるべき。あるいは本当にオマージュなら「〇〇に捧ぐ」としてもよいではないか。いずれにしろそういう「真の造形的オマージュ」であるなら構図からして全く同じと言うことは逆にあり得ないのである!
100歩譲って本当にオマージュだとしたら総ての利益はスギ氏に還元さるべきだろう。いただくものだけはちゃんと自分が頂いてオマージュとはおそれ入谷の鬼子母神!
つまりどっからどうみても100%のパクリ。ことは一個人の人格の問題としても、憂うべきはおかしなものをおかしいと言えない、感じない、批判精神の萎え、文化的貧困や事なかれ主義の跳梁跋扈であろう。