人生は短いと言うことを最近つくづく感じる。それは作品制作に向かっていると時ひしひしと判る。一つの表現、一つの画法をものにすることがどれだけ多くの時間が必要なことか。上手くいくならまだ良い。上手くいかない時はまさに出口の無い蟻地獄に落ちて堂々巡りをしているように思い、なんでこんな苦しいことを報いられると言う保障もないのに好き好んでやっているのかと思ったりする。
そして「あんな絵ならいつでも描いてやる」と思っていたことも所詮釈迦の手の中の孫悟空、実際にやってみるとその何分の一も出来てないと言うことに気づかされる。
以前研究所に通っていた頃の話だ。そこは時々ベテランの画家を呼んで講演会をよく開いた。これから画家を目指そうと言う若い集団に何某かの知識と言うより覚悟を植えつけさせようと狙いだったようだ。 技術的なことなら若い講師陣で十分だからだ。その中の一人の画家の言葉が今も耳に残っている。それは「りんご一つまともに描けないで…」という言葉だ。あとの言葉は忘れた。たぶん「…偉そうなこと言うな!…」と言ったような趣旨だっただろうが、ともかく私はその部分のフレーズだけが印象に残った。
私は子供の頃から周りから「絵が上手い」とおだてられ、事実警察や消防署やいろいろなところの「ポスターコンクール」で賞を総なめにし、本人もいい気になってその気になっていた。ところが研究所に初めて行った時その自尊心は見事に打ち砕かれた。みんな今まで見たことも無いような絵を描き、自分が余りに造形に関し無知で情報の無いところに置かれ、遅いスタートを切ったことかと言うことをつくづく思い知らされた。
それでも自分が「りんご一つまともに描けない」とは思っていなかった。うかつにも自分のことではないと思い一緒になって笑っていた。果たしてクールベの「りんごとざくろ」と言う絵を見た時、りんご一つまともに描けなかった自分を発見したのである。
デッサンとかアカデミズムを一部軽蔑する向きがある。そういう者はおそらくそうした修行を体験してないことによりその本当の「芸術的意味」を知らないのだと思う。例えば古典派系、印象派系、野獣派系、エコールドパリ系、ナイーフ派系、シュール系、現代美術系等々芸術相互間に価値の差異は無い。それぞれに優れていればそれぞれ一級の芸術なのだ。言い換えるとアカデミズムを否定するなら否定するに足る、相応の価値がなければならない。そうでなければ「負け犬遠吠え」以外のなにものでもない。
そしてそれも「普通は」アカデミズムと同等に、場合によりそれ以上に大変なことなのだ。「普通は」と言ったのは「才能」とか「資質」、「色彩・造形感覚」と言った生来のもので助けられる余地がアカデミズムよりは大きいからだ。
かくほど左様に造形とは、創造とは、それ自体が難渋なのに、「生活」や市場や画壇と言った現実と絡めれば、その純粋さ、自由を確保しつつ真の自我の絵画世界を構築するとは、そうした絵描きとして生きるとは大変なことであるということをホラでもハッタリでもなく言える。何より美術史上の先達の画業と人生がそれを示しているのである。
勿論絵画とはとりわけ油彩とはそうした退っ引きならないポジションを常にとらなくてはならないということはない。趣味的にでも、明るく、楽しく、ハッピーでも、邪道でもそれぞれの次元で活路はあるだろう。しかし、本格的にその道を究めようと思ったら甘い考えは絶対棄てた方が何より本人のためだ。自己のメティエに対するポリシーと、前回述べたアイデンティティー基づく確固たるトータルな「思想」がなければとてもやっていけるものではない!場合により「殉職」も覚悟しなければなるまい。「絵描きに≪でも≫なろう」なんていう輩には「なれるもんならなってみろ!」と言う他はない。
例えば同じヨーロッパなどの美術館でじかに西洋絵画の歴史に接するにしても、確固たる「思想」と自我のメティエに対するポリシーある者のそれは自らに受け皿があるのでが何とか一部でもそれを吸収しようとし、結果それを血や肉とすることができるだろう。「思想」がもたらす集中力は修行の時間を短縮させるだろう。反面それらがない者は概ね市民的教養・娯楽、趣味的満足を満たすだけの程度で終わる。受け皿がないから当然の結果である。
「メティエ」について更に言えば、かつて造形の本道に照らしそのド素人的越境を私が指弾した事に関し、開き直り「お前の絵は売れているのか!」と言う罵詈雑言を吐いたものがいた。そのもの自体はその安易で俗な価値観に現れているごとく、絵画芸術の方を己が矮小な尺度に合わせようとする、縷縷述べた絵画芸術をめぐる道理とは縁もゆかりもない者であるがこれをその後一貫して「支援」した者や自ら原因を作ったにも拘らず曖昧な態度を取った者がいる。
実はかの発言は私に言ったと同時にその価値観により私を通じて画家たるもの全体に言った言葉に他ならない。つまり先の「支援者」には自分が画家であるというポリシーはない。あるいはそれに至らない自分を知っているということ。だから我が事として捉えられない。
一事が万事。先の和田何某の盗作事件についても、自我のメティエにポリシーやプライドあるものなら
一も二もなく我がごととして否定し、恥すら感じるだろう。それは自我と関連した創造の意義やオリジナリティーやモラルの問題以前に、あれを盗作としないならこの世に盗作など存在しないという常識の問題だ。それをオリジナルと比較してどうとか、盗作された側がどうとか、本人言の「オマージュ」がどうとか言う。これもそれらの不在の為せること。因みにオマージュというなら為に自我に与えられた諸々の賞賛や利益もスギ氏に返却すべきであろう。いただくものだけは自分が頂いてオマージュとは笑止の極み。
一方もう一人の「曖昧者」はこれも一時が万事。その後も何かにつけてどっちつかず、自我の不在。作品らしい作品をほとんど当該コミニュティーにプレゼンテーションすることなく、いわば山のものとも海のものともつかない裡に、方々で何かもっともらしいことだけは言っているらしい。
話を冒頭に戻すと、そうした思想の不在、メティエの不在、あるいは単なる「適用障害」か「免疫不全」の西洋文化への「オマージュ」程度のものに付き合っている時間はない。自らの退っ引きならない思想に基づき造形の本道と真摯に向き合っているホンモノだけと出会えれば良い。ニセモノは全部いらない。自らどんどん目の前から消えていってもらいたい。
これから暫く制作に集中する。
そして「あんな絵ならいつでも描いてやる」と思っていたことも所詮釈迦の手の中の孫悟空、実際にやってみるとその何分の一も出来てないと言うことに気づかされる。
以前研究所に通っていた頃の話だ。そこは時々ベテランの画家を呼んで講演会をよく開いた。これから画家を目指そうと言う若い集団に何某かの知識と言うより覚悟を植えつけさせようと狙いだったようだ。 技術的なことなら若い講師陣で十分だからだ。その中の一人の画家の言葉が今も耳に残っている。それは「りんご一つまともに描けないで…」という言葉だ。あとの言葉は忘れた。たぶん「…偉そうなこと言うな!…」と言ったような趣旨だっただろうが、ともかく私はその部分のフレーズだけが印象に残った。
私は子供の頃から周りから「絵が上手い」とおだてられ、事実警察や消防署やいろいろなところの「ポスターコンクール」で賞を総なめにし、本人もいい気になってその気になっていた。ところが研究所に初めて行った時その自尊心は見事に打ち砕かれた。みんな今まで見たことも無いような絵を描き、自分が余りに造形に関し無知で情報の無いところに置かれ、遅いスタートを切ったことかと言うことをつくづく思い知らされた。
それでも自分が「りんご一つまともに描けない」とは思っていなかった。うかつにも自分のことではないと思い一緒になって笑っていた。果たしてクールベの「りんごとざくろ」と言う絵を見た時、りんご一つまともに描けなかった自分を発見したのである。
デッサンとかアカデミズムを一部軽蔑する向きがある。そういう者はおそらくそうした修行を体験してないことによりその本当の「芸術的意味」を知らないのだと思う。例えば古典派系、印象派系、野獣派系、エコールドパリ系、ナイーフ派系、シュール系、現代美術系等々芸術相互間に価値の差異は無い。それぞれに優れていればそれぞれ一級の芸術なのだ。言い換えるとアカデミズムを否定するなら否定するに足る、相応の価値がなければならない。そうでなければ「負け犬遠吠え」以外のなにものでもない。
そしてそれも「普通は」アカデミズムと同等に、場合によりそれ以上に大変なことなのだ。「普通は」と言ったのは「才能」とか「資質」、「色彩・造形感覚」と言った生来のもので助けられる余地がアカデミズムよりは大きいからだ。
かくほど左様に造形とは、創造とは、それ自体が難渋なのに、「生活」や市場や画壇と言った現実と絡めれば、その純粋さ、自由を確保しつつ真の自我の絵画世界を構築するとは、そうした絵描きとして生きるとは大変なことであるということをホラでもハッタリでもなく言える。何より美術史上の先達の画業と人生がそれを示しているのである。
勿論絵画とはとりわけ油彩とはそうした退っ引きならないポジションを常にとらなくてはならないということはない。趣味的にでも、明るく、楽しく、ハッピーでも、邪道でもそれぞれの次元で活路はあるだろう。しかし、本格的にその道を究めようと思ったら甘い考えは絶対棄てた方が何より本人のためだ。自己のメティエに対するポリシーと、前回述べたアイデンティティー基づく確固たるトータルな「思想」がなければとてもやっていけるものではない!場合により「殉職」も覚悟しなければなるまい。「絵描きに≪でも≫なろう」なんていう輩には「なれるもんならなってみろ!」と言う他はない。
例えば同じヨーロッパなどの美術館でじかに西洋絵画の歴史に接するにしても、確固たる「思想」と自我のメティエに対するポリシーある者のそれは自らに受け皿があるのでが何とか一部でもそれを吸収しようとし、結果それを血や肉とすることができるだろう。「思想」がもたらす集中力は修行の時間を短縮させるだろう。反面それらがない者は概ね市民的教養・娯楽、趣味的満足を満たすだけの程度で終わる。受け皿がないから当然の結果である。
「メティエ」について更に言えば、かつて造形の本道に照らしそのド素人的越境を私が指弾した事に関し、開き直り「お前の絵は売れているのか!」と言う罵詈雑言を吐いたものがいた。そのもの自体はその安易で俗な価値観に現れているごとく、絵画芸術の方を己が矮小な尺度に合わせようとする、縷縷述べた絵画芸術をめぐる道理とは縁もゆかりもない者であるがこれをその後一貫して「支援」した者や自ら原因を作ったにも拘らず曖昧な態度を取った者がいる。
実はかの発言は私に言ったと同時にその価値観により私を通じて画家たるもの全体に言った言葉に他ならない。つまり先の「支援者」には自分が画家であるというポリシーはない。あるいはそれに至らない自分を知っているということ。だから我が事として捉えられない。
一事が万事。先の和田何某の盗作事件についても、自我のメティエにポリシーやプライドあるものなら
一も二もなく我がごととして否定し、恥すら感じるだろう。それは自我と関連した創造の意義やオリジナリティーやモラルの問題以前に、あれを盗作としないならこの世に盗作など存在しないという常識の問題だ。それをオリジナルと比較してどうとか、盗作された側がどうとか、本人言の「オマージュ」がどうとか言う。これもそれらの不在の為せること。因みにオマージュというなら為に自我に与えられた諸々の賞賛や利益もスギ氏に返却すべきであろう。いただくものだけは自分が頂いてオマージュとは笑止の極み。
一方もう一人の「曖昧者」はこれも一時が万事。その後も何かにつけてどっちつかず、自我の不在。作品らしい作品をほとんど当該コミニュティーにプレゼンテーションすることなく、いわば山のものとも海のものともつかない裡に、方々で何かもっともらしいことだけは言っているらしい。
話を冒頭に戻すと、そうした思想の不在、メティエの不在、あるいは単なる「適用障害」か「免疫不全」の西洋文化への「オマージュ」程度のものに付き合っている時間はない。自らの退っ引きならない思想に基づき造形の本道と真摯に向き合っているホンモノだけと出会えれば良い。ニセモノは全部いらない。自らどんどん目の前から消えていってもらいたい。
これから暫く制作に集中する。