「健全なる精神は健全なる肉体に宿る」と言う言葉がある。その場合の「健全」とは何かと言う問題があるが、私は「健全なる創造は健全なる思想に宿る」と言う言葉に置き換えられるのではないかと思う。この場合の健全とは何ものにも換価されない、何ものの支配もうけない、何ものにも阿ねない、「自由」で「純粋」で、「真実」であると定義したい。
芸術が「高貴」とされるのは、創造者の、後述する「思想」や技量、素材そのものの特質等芸術そのものの格調や品性ということもあるが、虚飾にまみれ、利害得失、ウソやハッタリやハヤリモノに満ちた、俗臭ふんぷんたる現実に比して、自由、純粋さ、真実の産物であるというその「相対的価値」が大きな比重を占めるということにもあるだろう。
その限りにおいては資格要件などない。どんな芸術でもそうだが、絵画芸術に求められるものがあるとすれば、謙虚に造形の意義に向き合い、自己に具備した限りの能力を傾け、さらに絵画芸術としての理想を目指ざし技術的向上をはかるということだろう。
一方創造が宿るべき思想とは勿論政治、社会科学、宗教、哲学など体系化された「イデオロギー」に限られない。
この場合のそれは≪創造の主体たる自我がその背負ってきた人生と絡めてどうで、その自我が位置づけられている時間・空間(現在・過去・未来、社会・国・世界・宇宙)への認識がどうで、その時空との関わり方がどうだから自分の創造行為はどうあるべきか、そしてその「メティエ」自体に係るポリシー、プライド…総て陳腐な表現ではあるが「アイデンティティ」と言われるものだ。≫
当たり前の話だがそういうものが複数あるはずがない。トータルなものが一つに集約されるはずだ。つまり違背する価値観が自己の内部で共存するなど精神分裂病でもない限りあり得ないのである。
既に別途のべた言葉を援用すれば「俺の言っていることは正しいがあんたも正しいかもしれない」などというのは無責任な自信のない「思想」である。何某かの「社会性」の規制をうけない純粋な思想に言論の自由も民主主義もない。
そしてその思想は創造と有機的につながっている。つまり一体なのだ。あとは思想の十分な受け皿たるべきものとしての創造の「質」の如何という問題であろう。
逆に創造の連続が思想を生むと言うこともある。これは別に難しい話ではない。どんなメティエでも同じだろう。ラーメン職人がそのポリシーにこだわり、「自分のところのラーメンほど美味いものはない」とプライドをもつのも己がメティエに対する責任感のあらわれだ。逆に「うちのは美味いがあそこのも美味いかもしれない」と思うのは「善人」だがメティエへの姿勢としては「甘い」。
私がINコミニュティーで面白いなと思うのは書いているその人の思想を感じるものである。逆に面白くないのは前提として先ず他人の創ったもの、他人の言葉が存在し、それを手がかりにしなければ自分の思想らしきものを語れないという、その限界が見えてるばかりでなく安易なある意味ではアンフェアな手法にある。そういう人間は具体的事象についても曖昧で、あんたはどこにいるの?と問いかけたくなる。
そういう傾向にある者らは本当の自我の思想がないので何かについての言動も共通した脈絡がある。早い話がどっちつかずで何を言ってるかわからない。結局は現状肯定、大衆迎合に繋がっていく。
因みに私はこのIN上のコミニュティーで二人ほどそういう意味の思想と創造行為が連動しているような描き手と出会った。いずれも未だその道の専門家ではない。しかし共通して言えるのは、創造することがその数奇な人生と絡めてかなりギリギリの、退っ引きならないところから来ている、拙言で言うなら「われ描く故にわれあり」といった意義を本人や周辺の言葉で感じさせられるものである。いずれも今後の展開次第で表現の奥から見るものを睨み返すような迫力ある絵画芸術を生み出せるかもしれない。
先に述べたように思想とは自己において一元的なものである。だから当然他者と衝突する、当たり前のこと。だからコミニュケーションの維持とか何某かの秩序を保とうとする場合はこれを抑える必要はあろう。民主主義も言論の自由もそういう「社会性」の中でのルール。言い換えると社会性の規制を受けない、あるいは必ずしも妥協や協調や合意が必要でない社会性(INコミニュティーも概ねそうだ)の中では先ず思想があってよい。否、あるべきだ。そしてぶつかったら必要なら議論をすれば良い。敵を何人作ってもやむを得ない。
然るに自らに思想がないものほど最初から妥協点を求めるたがる。それが冒頭のべた「つまらなさ」にも通ずる。つまらないがそういう人間は敵をつくらない。私に言わせれば敵が一人もいない人間ほど信用できない者はない。そういう人間は純粋な自己を晒さない、本音を言わない、つまり誠実ではないからである。あるいは価値観の指標が借り物であったり既成の市民的道徳律であったりりする。つまり早い話がどこかで自己の安全策を探っているのだ。そういう結論が出ているものとの交流は「希望」がない。
例えそこに誤謬や未熟があっても、敵に回っても、精一杯自己を晒しているものは主体性あるという意味では評価はできるものである。
(つづく)
芸術が「高貴」とされるのは、創造者の、後述する「思想」や技量、素材そのものの特質等芸術そのものの格調や品性ということもあるが、虚飾にまみれ、利害得失、ウソやハッタリやハヤリモノに満ちた、俗臭ふんぷんたる現実に比して、自由、純粋さ、真実の産物であるというその「相対的価値」が大きな比重を占めるということにもあるだろう。
その限りにおいては資格要件などない。どんな芸術でもそうだが、絵画芸術に求められるものがあるとすれば、謙虚に造形の意義に向き合い、自己に具備した限りの能力を傾け、さらに絵画芸術としての理想を目指ざし技術的向上をはかるということだろう。
一方創造が宿るべき思想とは勿論政治、社会科学、宗教、哲学など体系化された「イデオロギー」に限られない。
この場合のそれは≪創造の主体たる自我がその背負ってきた人生と絡めてどうで、その自我が位置づけられている時間・空間(現在・過去・未来、社会・国・世界・宇宙)への認識がどうで、その時空との関わり方がどうだから自分の創造行為はどうあるべきか、そしてその「メティエ」自体に係るポリシー、プライド…総て陳腐な表現ではあるが「アイデンティティ」と言われるものだ。≫
当たり前の話だがそういうものが複数あるはずがない。トータルなものが一つに集約されるはずだ。つまり違背する価値観が自己の内部で共存するなど精神分裂病でもない限りあり得ないのである。
既に別途のべた言葉を援用すれば「俺の言っていることは正しいがあんたも正しいかもしれない」などというのは無責任な自信のない「思想」である。何某かの「社会性」の規制をうけない純粋な思想に言論の自由も民主主義もない。
そしてその思想は創造と有機的につながっている。つまり一体なのだ。あとは思想の十分な受け皿たるべきものとしての創造の「質」の如何という問題であろう。
逆に創造の連続が思想を生むと言うこともある。これは別に難しい話ではない。どんなメティエでも同じだろう。ラーメン職人がそのポリシーにこだわり、「自分のところのラーメンほど美味いものはない」とプライドをもつのも己がメティエに対する責任感のあらわれだ。逆に「うちのは美味いがあそこのも美味いかもしれない」と思うのは「善人」だがメティエへの姿勢としては「甘い」。
私がINコミニュティーで面白いなと思うのは書いているその人の思想を感じるものである。逆に面白くないのは前提として先ず他人の創ったもの、他人の言葉が存在し、それを手がかりにしなければ自分の思想らしきものを語れないという、その限界が見えてるばかりでなく安易なある意味ではアンフェアな手法にある。そういう人間は具体的事象についても曖昧で、あんたはどこにいるの?と問いかけたくなる。
そういう傾向にある者らは本当の自我の思想がないので何かについての言動も共通した脈絡がある。早い話がどっちつかずで何を言ってるかわからない。結局は現状肯定、大衆迎合に繋がっていく。
因みに私はこのIN上のコミニュティーで二人ほどそういう意味の思想と創造行為が連動しているような描き手と出会った。いずれも未だその道の専門家ではない。しかし共通して言えるのは、創造することがその数奇な人生と絡めてかなりギリギリの、退っ引きならないところから来ている、拙言で言うなら「われ描く故にわれあり」といった意義を本人や周辺の言葉で感じさせられるものである。いずれも今後の展開次第で表現の奥から見るものを睨み返すような迫力ある絵画芸術を生み出せるかもしれない。
先に述べたように思想とは自己において一元的なものである。だから当然他者と衝突する、当たり前のこと。だからコミニュケーションの維持とか何某かの秩序を保とうとする場合はこれを抑える必要はあろう。民主主義も言論の自由もそういう「社会性」の中でのルール。言い換えると社会性の規制を受けない、あるいは必ずしも妥協や協調や合意が必要でない社会性(INコミニュティーも概ねそうだ)の中では先ず思想があってよい。否、あるべきだ。そしてぶつかったら必要なら議論をすれば良い。敵を何人作ってもやむを得ない。
然るに自らに思想がないものほど最初から妥協点を求めるたがる。それが冒頭のべた「つまらなさ」にも通ずる。つまらないがそういう人間は敵をつくらない。私に言わせれば敵が一人もいない人間ほど信用できない者はない。そういう人間は純粋な自己を晒さない、本音を言わない、つまり誠実ではないからである。あるいは価値観の指標が借り物であったり既成の市民的道徳律であったりりする。つまり早い話がどこかで自己の安全策を探っているのだ。そういう結論が出ているものとの交流は「希望」がない。
例えそこに誤謬や未熟があっても、敵に回っても、精一杯自己を晒しているものは主体性あるという意味では評価はできるものである。
(つづく)