「絵画芸術としての価値」とはあくまで「絵画的である」ということにおいて語られるべきであろう。
たとえば行き過ぎた表現主義は「文学的」になってしまうし、技巧偏重は「工芸品的」になってしまう。しかしこれらはなお程度を争う議論の余地を残すだけまだましな方。「写真的」、「商業美術的」、「映像美術的」、「イラストレーション的」、「マンガ的」など、内容も市場メカニズムも全く異なるものを「アート」なる便利な言葉で一括りにしてしまう傾向があるが、これらとは明確に一線を画すべきである。
絵画的なる価値とは他のどんなものにも換価できない、まさに絵画ならでは表しえない価値ということである。従って「写真のような絵」とは直ちにその絵の価値を表したものではない。わざわざ油彩のマティエールを殺し、まるで気象現象としての夕暮を忠実に、レコードジャケットの写真のように描いても、「たそがれ」の、精神性におけるリアリティーと言う意味でではバルビゾン派などには遥かに及ばないだろう。これが絵画というものだ。
ポップのR・リキテンシュタインとか抽象のスラージュなどの絵から「マンガ」や「書」などが連想されるが、いずれも絵画芸術としての独自のインパクトあるメッセージ性あればこそのものであり、現象面のみの意義に終わるものはただの「話題性狙い」か「パクリ」に過ぎない。
この絵画的という意味を具体的に考えてみる。例えば「色彩」について、その絵画的「色彩美」とは、色彩それ自体の「科学的」、「物理的」、「光学的」美とは違う。この辺のところの区別のつかない論調が件の公共の場などでもしばしば見られる。坊主憎けりゃけさまで憎し風の、絵画の色彩は写真や映像に劣後すると言う論旨もある。そう信じるならそちらの方へ行かれたら如何と思うばかりであるが、こうした安易で短絡的な趣旨へ専門家を自認するものを含め適切な反論は皆無のところを見ると彼らもそう思っているのではないか?。原色=豊かな色感で、なまじデッサンなんかしない方が良いですむなら苦労はあるまい。
絵の具のチューブから出したばかりのナマの色が「きれい」なのは当たり前の話。しかしそれは前述の後者の「美」であり、それらばかりで描いた絵が「絵画的に」きれいな絵になると思ったら大間違い。
例えばコロー、ユトリロ、モデイリアニ、シャガールなどの色彩を個別に分析すれば決して「きれいな色」は使ってない。むしろ混濁し退色しているとさえ言える。然るに作品全体に現れる色彩はその表現性や造形性と相俟って、詩情豊かで魅惑的な美しさに溢れている。これが「絵画的な色彩」である。
黒は色彩学上では無彩色とされている。しかし佐伯祐三や村山槐多などの絵では黒は「有彩色」というべき意義がある。これも絵画的色彩である。
特に私はコローの緑については従来の「カラリスト」の概念を覆すほどのものと思っているが、これは以前述べたので割愛する。
「色彩派」のチャンピオン印象派は確かに前述の意味の「きれいな色」を使っている。しかしそれは決して一般的な意味の原色を塗りたくって出来ているわけではない。前回述べた混色の三技法やマティエ-ル処理等の技法を駆使し、ヴァルール、ハーモニー、ニュアンスなど生来の色彩感覚や的確な計算によりバランスが図られた、あくまでも「絵画的色彩」なのである。
モネやルノワールの光の表現も「絵画的に光を解釈したもの」であり、それゆえ従来の古典派の色彩とは違うその表現が美術史上画期的なものとなった。今日科学的・光学的色彩メディアの氾濫からそれらにとりたてて意義を感じることはないかもしれない、しかしことは100年以上前の話である。
例えば我々がよく見る画集などの絵が時に現物より色味を多く感じることがある。印刷物の画像とは現物を写真に撮って、それを光学処理により色分解し、「黄、マゼンタ、シアン、墨」4版に分け(地の白も利用するので正確には5色)、それぞれの網点(あみてん)の集合によって再画像化したもの。つまり、4色の細かな網点を我々の網膜が無意識のうちに感じるから複雑な色味を感じるのである。例えば空は概ね青い絵の具で塗るが、その空の色味により色分解後の網点には赤も黒もある。黄色の網点と青がぶつかれば緑を感じる。同じく青と赤だと紫。いわゆる三原色である。
実はこの「網点の集合」こそ100年以上も前にスーラなどの新印象派により生み出された「点描派」の原理に他ならない。最近逆にモネの睡蓮を光学的に追及してその再現を「売り」にしてるの映像機器のCMもあるようだが、芸術の世界において「人間」を超えるテクノロジーなどを信ずるは新興宗教に近い。
油彩の味わいとか深み、コクというのは素材そのものの特質と、マティエール、前記の色彩使いのバランス等から総合的に得られるものであり、もとより単純に混色すればよいというものではない。混色は混色の必要があるから行うのである。
例えばりんごを描く場合、立体感を出そうと思ったら普通トーン(調子)を追わなければならない。この場合のトーンとは明度差のこと。明度とは白から黒に至るのグラデーションでつけるのが普通。色相の差(つまり絵の具の種類)等でつけるという方法もあるが繋がりがうまくいかないしリアリズムには向かない。つまりどうしても白か黒を介してグラデーションをつけざるを得ないということになる。
(つづく)
たとえば行き過ぎた表現主義は「文学的」になってしまうし、技巧偏重は「工芸品的」になってしまう。しかしこれらはなお程度を争う議論の余地を残すだけまだましな方。「写真的」、「商業美術的」、「映像美術的」、「イラストレーション的」、「マンガ的」など、内容も市場メカニズムも全く異なるものを「アート」なる便利な言葉で一括りにしてしまう傾向があるが、これらとは明確に一線を画すべきである。
絵画的なる価値とは他のどんなものにも換価できない、まさに絵画ならでは表しえない価値ということである。従って「写真のような絵」とは直ちにその絵の価値を表したものではない。わざわざ油彩のマティエールを殺し、まるで気象現象としての夕暮を忠実に、レコードジャケットの写真のように描いても、「たそがれ」の、精神性におけるリアリティーと言う意味でではバルビゾン派などには遥かに及ばないだろう。これが絵画というものだ。
ポップのR・リキテンシュタインとか抽象のスラージュなどの絵から「マンガ」や「書」などが連想されるが、いずれも絵画芸術としての独自のインパクトあるメッセージ性あればこそのものであり、現象面のみの意義に終わるものはただの「話題性狙い」か「パクリ」に過ぎない。
この絵画的という意味を具体的に考えてみる。例えば「色彩」について、その絵画的「色彩美」とは、色彩それ自体の「科学的」、「物理的」、「光学的」美とは違う。この辺のところの区別のつかない論調が件の公共の場などでもしばしば見られる。坊主憎けりゃけさまで憎し風の、絵画の色彩は写真や映像に劣後すると言う論旨もある。そう信じるならそちらの方へ行かれたら如何と思うばかりであるが、こうした安易で短絡的な趣旨へ専門家を自認するものを含め適切な反論は皆無のところを見ると彼らもそう思っているのではないか?。原色=豊かな色感で、なまじデッサンなんかしない方が良いですむなら苦労はあるまい。
絵の具のチューブから出したばかりのナマの色が「きれい」なのは当たり前の話。しかしそれは前述の後者の「美」であり、それらばかりで描いた絵が「絵画的に」きれいな絵になると思ったら大間違い。
例えばコロー、ユトリロ、モデイリアニ、シャガールなどの色彩を個別に分析すれば決して「きれいな色」は使ってない。むしろ混濁し退色しているとさえ言える。然るに作品全体に現れる色彩はその表現性や造形性と相俟って、詩情豊かで魅惑的な美しさに溢れている。これが「絵画的な色彩」である。
黒は色彩学上では無彩色とされている。しかし佐伯祐三や村山槐多などの絵では黒は「有彩色」というべき意義がある。これも絵画的色彩である。
特に私はコローの緑については従来の「カラリスト」の概念を覆すほどのものと思っているが、これは以前述べたので割愛する。
「色彩派」のチャンピオン印象派は確かに前述の意味の「きれいな色」を使っている。しかしそれは決して一般的な意味の原色を塗りたくって出来ているわけではない。前回述べた混色の三技法やマティエ-ル処理等の技法を駆使し、ヴァルール、ハーモニー、ニュアンスなど生来の色彩感覚や的確な計算によりバランスが図られた、あくまでも「絵画的色彩」なのである。
モネやルノワールの光の表現も「絵画的に光を解釈したもの」であり、それゆえ従来の古典派の色彩とは違うその表現が美術史上画期的なものとなった。今日科学的・光学的色彩メディアの氾濫からそれらにとりたてて意義を感じることはないかもしれない、しかしことは100年以上前の話である。
例えば我々がよく見る画集などの絵が時に現物より色味を多く感じることがある。印刷物の画像とは現物を写真に撮って、それを光学処理により色分解し、「黄、マゼンタ、シアン、墨」4版に分け(地の白も利用するので正確には5色)、それぞれの網点(あみてん)の集合によって再画像化したもの。つまり、4色の細かな網点を我々の網膜が無意識のうちに感じるから複雑な色味を感じるのである。例えば空は概ね青い絵の具で塗るが、その空の色味により色分解後の網点には赤も黒もある。黄色の網点と青がぶつかれば緑を感じる。同じく青と赤だと紫。いわゆる三原色である。
実はこの「網点の集合」こそ100年以上も前にスーラなどの新印象派により生み出された「点描派」の原理に他ならない。最近逆にモネの睡蓮を光学的に追及してその再現を「売り」にしてるの映像機器のCMもあるようだが、芸術の世界において「人間」を超えるテクノロジーなどを信ずるは新興宗教に近い。
油彩の味わいとか深み、コクというのは素材そのものの特質と、マティエール、前記の色彩使いのバランス等から総合的に得られるものであり、もとより単純に混色すればよいというものではない。混色は混色の必要があるから行うのである。
例えばりんごを描く場合、立体感を出そうと思ったら普通トーン(調子)を追わなければならない。この場合のトーンとは明度差のこと。明度とは白から黒に至るのグラデーションでつけるのが普通。色相の差(つまり絵の具の種類)等でつけるという方法もあるが繋がりがうまくいかないしリアリズムには向かない。つまりどうしても白か黒を介してグラデーションをつけざるを得ないということになる。
(つづく)