描画材には周知のごとくいろいろな素材がある。油絵の具が他の素材と決定的に違うのはメデュームが油性であることにより「乾燥が遅い」ということである。この一見描画材としてはデメリットと思える油彩の特質が絵画の可能性を飛躍的に展開させ、絵画史における「油彩画」の地位を決定的なものとした。
油絵の具の登場以来。美術史上の名だたる画家は結局はほとんど「油絵描き」であったし、油彩は西洋画を語るに話がそこから始まる「共通土俵」とさえ言える。
事実西洋美術史とは油彩・油絵の具の素材としての展開の可能性を探った、試行錯誤の歴史の面もあると言ってよい。
例えば油彩以前の画材のフレスコには、「乾式」と「湿式」、テンペラには卵黄のみのもの、全卵に油分を混ぜるもの(テンペラ・グラッサ)、テンペラ・ハッチングにより描き起しと油性透層による着色をを交互に行うもの(テンペラ・ミスタ)などの様々な技法があったが、それらはいかに「調子をつける」(トーンをつける)かという工夫の歴史といっても過言でない。
油彩は上記の要請に応えうる画期的素材として登場した。乾きが遅いので柔らかく微妙なトーンをハッチングによらずつけられる。このことがルネッサンス前後の、リアリズムの追求という「造形的合理主義」と相俟って、瞬く間に西洋画素材の主流となった。そういう意味では油彩は数ある素材の中の一つというのではなく、各素材・技法の欠点や限界を克服しつつ進化していった集大成であり結論であると解釈できるだろう。
勿論油彩それ自体にも幾つかの欠点もあるが、それの持つ格調と魅力はそれらを補って余りある。
トーンの処理はヴァルールや立体感、質感に関わる重要な要素だが、油彩のメリットはトーンの問題だけではない。油彩はそのマティエール(画肌)自体の美しさを生かせる素材だ。例えばルオーやユトリロの重厚さは他の素材では先ず得られない。色彩についても同様。
色彩の混色には、例えば1.赤と青を単純に混ぜて紫を作る、2.赤と青の線や点を並置させて紫を感じさせる、3.下層に赤を仕込み上層に青を乗せて透かし効果で紫を感じさせる、という三方法がある。これがスムーズに出来るのが油彩である。印象派は2の方法をよくとった。3は画面のコクや深みを重視する、日本人の洋画家が好きな画法。
ルネッサンスから古典主義、印象派、表現派・野獣派などの流れは油彩の素材的展開の推移とも言える。先に「西洋美術史とは油彩・油絵の具の素材としての展開の可能性を探った、試行錯誤の歴史の面…」と言ったのはそのような意味である。
つまり油彩というのは、まともに取り組めばどんな画法にも対応できるし、成功すれば十分期待に応えうる効果も得られるものであるし、追求すれば一生かかっても追求仕切れないほどの懐の深さを有するものである。したがって作品の巧拙、芸術としての出来・不出来は別として、それとまともに取り組んでいる描き手の絵はそういう油彩の特質を生かそうとする意志が見えるし、熟達者はそれを十分にこなしきっているものである。
一時期ある種の公募展などでフレスコ、テンペラなど一ひねりしている素材がよい成績を収めたことや少しでも目立ちたいということで非油彩系素材に活路を見出そうという傾向がある。勿論それ自体は悪いことではない。しかしそれには相当の技術的練磨や知識がいる。油彩と非油彩素材とでは色味や調子やメデュームの屈折率などに差がある上、油性と水性の整合性、統一性が求められる混合技法などは相当の専門家にとっても容易なことではない。
念のために言うが、混合技法、アクリル、水彩など他の素材の可能性と意義を否定するものではない。しかし敢えてそうした非油彩の画材を選ぶ場合は、例えばテンペラにおけるイコン制作など何某かの必要性や必然性が係わってくるものである。油彩が向いてない。他の素材の方が力が出せるという資質・力量の問題も現にある。
そうでなければ、油彩というさまざまな可能性に満ちた、素晴らしい素材に背を向けたり、わざわざ厄介な混合技法を取り入れたりする必要はない。
それらは油彩への対応力の非力をカバーするためのものではないし、「油彩からどう逃げるか」という技法論は成立しない。少なくても公共の場で「油絵」を上手くなりたいと思っている人には、それにふさわしい情報が提供されるべきであろう。
(続く。次回は色彩について)
油絵の具の登場以来。美術史上の名だたる画家は結局はほとんど「油絵描き」であったし、油彩は西洋画を語るに話がそこから始まる「共通土俵」とさえ言える。
事実西洋美術史とは油彩・油絵の具の素材としての展開の可能性を探った、試行錯誤の歴史の面もあると言ってよい。
例えば油彩以前の画材のフレスコには、「乾式」と「湿式」、テンペラには卵黄のみのもの、全卵に油分を混ぜるもの(テンペラ・グラッサ)、テンペラ・ハッチングにより描き起しと油性透層による着色をを交互に行うもの(テンペラ・ミスタ)などの様々な技法があったが、それらはいかに「調子をつける」(トーンをつける)かという工夫の歴史といっても過言でない。
油彩は上記の要請に応えうる画期的素材として登場した。乾きが遅いので柔らかく微妙なトーンをハッチングによらずつけられる。このことがルネッサンス前後の、リアリズムの追求という「造形的合理主義」と相俟って、瞬く間に西洋画素材の主流となった。そういう意味では油彩は数ある素材の中の一つというのではなく、各素材・技法の欠点や限界を克服しつつ進化していった集大成であり結論であると解釈できるだろう。
勿論油彩それ自体にも幾つかの欠点もあるが、それの持つ格調と魅力はそれらを補って余りある。
トーンの処理はヴァルールや立体感、質感に関わる重要な要素だが、油彩のメリットはトーンの問題だけではない。油彩はそのマティエール(画肌)自体の美しさを生かせる素材だ。例えばルオーやユトリロの重厚さは他の素材では先ず得られない。色彩についても同様。
色彩の混色には、例えば1.赤と青を単純に混ぜて紫を作る、2.赤と青の線や点を並置させて紫を感じさせる、3.下層に赤を仕込み上層に青を乗せて透かし効果で紫を感じさせる、という三方法がある。これがスムーズに出来るのが油彩である。印象派は2の方法をよくとった。3は画面のコクや深みを重視する、日本人の洋画家が好きな画法。
ルネッサンスから古典主義、印象派、表現派・野獣派などの流れは油彩の素材的展開の推移とも言える。先に「西洋美術史とは油彩・油絵の具の素材としての展開の可能性を探った、試行錯誤の歴史の面…」と言ったのはそのような意味である。
つまり油彩というのは、まともに取り組めばどんな画法にも対応できるし、成功すれば十分期待に応えうる効果も得られるものであるし、追求すれば一生かかっても追求仕切れないほどの懐の深さを有するものである。したがって作品の巧拙、芸術としての出来・不出来は別として、それとまともに取り組んでいる描き手の絵はそういう油彩の特質を生かそうとする意志が見えるし、熟達者はそれを十分にこなしきっているものである。
一時期ある種の公募展などでフレスコ、テンペラなど一ひねりしている素材がよい成績を収めたことや少しでも目立ちたいということで非油彩系素材に活路を見出そうという傾向がある。勿論それ自体は悪いことではない。しかしそれには相当の技術的練磨や知識がいる。油彩と非油彩素材とでは色味や調子やメデュームの屈折率などに差がある上、油性と水性の整合性、統一性が求められる混合技法などは相当の専門家にとっても容易なことではない。
念のために言うが、混合技法、アクリル、水彩など他の素材の可能性と意義を否定するものではない。しかし敢えてそうした非油彩の画材を選ぶ場合は、例えばテンペラにおけるイコン制作など何某かの必要性や必然性が係わってくるものである。油彩が向いてない。他の素材の方が力が出せるという資質・力量の問題も現にある。
そうでなければ、油彩というさまざまな可能性に満ちた、素晴らしい素材に背を向けたり、わざわざ厄介な混合技法を取り入れたりする必要はない。
それらは油彩への対応力の非力をカバーするためのものではないし、「油彩からどう逃げるか」という技法論は成立しない。少なくても公共の場で「油絵」を上手くなりたいと思っている人には、それにふさわしい情報が提供されるべきであろう。
(続く。次回は色彩について)