最近掲示板で「無視リスト」という機能が加わった。折角あるものなので利用してみない手はないと思い幾つかのHNを登録したら、言論の場の体をなさない虫食いだらけのものとなった。試しにあるトピを覗いてみたら真っ白で笑ってしまった。
 別にそのようなことをしても大した意味はない、ほんの自己満足なのであるが世の中に数多ある不快なものは視界から出来るだけ除去することは精神衛生上も悪いことではないのでその措置を継続している。
事ほど左様に最近の掲示板には忍従しがたきものがある。
 ゴリゴリの保守反動も今では言うにはばかるようなカビの生えたような単細胞的体制擁護論を吐く御仁がいる。これは最早知性の問題ではなく感受性の問題だろう。おそらく頭ではなくどこか別のところで情報を捉え反芻しているのだろう。また、「あんたは一体どこにいるんだね!?」と問いたくなるような、時に人間性を疑いたくなるようなご都合主義「変温動物」もいる。他にトラの威を借るきつね、己が甲羅に合わせて穴掘る蟹、下衆のかんぐり…etc.
しかし何より看過しがたいのは、絵画芸術を矮小、曲解させるような、あるいは卑しめ貶めるような、一部論調がまことしやかに語られていながら、それに対する適正、有効な疑問・反論の提示が皆無であることにより、ますますその誤った論調が増長されることである。「知らぬが花」というが知った以上はこのIN上のどこかにそれを容認しない立場を明確に残しておく必要性を感じた次第である。

 私もいろいろなことを発言してきたが、申し訳ないが、こと絵画芸術のことに関してウソ・ハッタリを言ってるつもりはないし、とりわけIN上の場においては出来るだけそれらの客観性には配慮して発言している。歴史、政治、社会等芸術の背景となる時代の諸問題等を含め、純粋に自分の思想や学んだ事を、「検索知識」の引用程度ではない、自分の言葉で言ってるつもりである。自信のないことなら公共の場に曝すことはしない。
 反面自分の言葉で、自分の思想を語っているもの、学ばされたり、感心したりするものなどお目にかかったことはない。せめて拙作「爺さん上の蟻や!」程度の笑わせてくれるユーモアセンスでもあれば救われるのだがこれもない。
 のみならず、事の本質や真実と向き合うのが都合が悪い御仁はどこにもいるようで、指弾を受けた事そのものに反論できる能力なき故に、「逆切れ」し、搦め手から「お前は何もんだ!」と開き直ったり、俗臭芬々たる「プロ・アマ論」を持ち出してことのすり替えを図ったりしようとうる。ついでに言えば仮にその「プロ・アマ論」に寄って立ったとしても、彼らが一層自らの「ディス・アドヴァンテージ」を増幅させるだけだろう。

 そういう者らが以後敵対的、挑戦的になっても痛くも痒くもないが、願わくば私がそうしているように私を無視してくれれば有難いのだが、いろんな感触ではどうもそうではないらしい。
 そういう私に批判的なものらに対しては「反面教師」になるいわれはないが、さりとて「お役に立つ」いわれはもっとない。私を否定するなら私の文も読まず作品も見に来ないでいただきたい。そうすれば、こちらも「何を言われているか」、発言等「パクられてないか」などそのような者らを適時「監視」する必要もないし、何よりも「依存症」でもオタクでもないので必要な時以外にPCそのものに近づかなければよいのであるが。
 いずれにしろ基本的には無視、時々監視のため掲示板を覗けばよいのであるが、それで済まない問題がある。

 思想・信条や言論の自由ということはあるが、私には不似合いな言葉ではあるが、「公共の福祉」とか「公序良俗」という言葉の下にそれらが一定に制限を受ける場合がある。
 例えば、絵画芸術に謙虚に向き合い、その真の価値に近づくための日々造形的努力をしている者、あるいは絵画を通じて「自己開発」や「自己実現」を目指している者にとって、無益で誤謬に満ちた、混乱を与えるだけの情報は「造形的公序良俗」に反するし、自己が絵画芸術の真髄に少しでも近づこうとするのではなく、絵画芸術の方を己が器に合わせようとする不遜さとある種の滑稽さを伴う頑迷さとその必然である「造形的邪道」は、その意味では害悪の撒き散らしと呼ぶべきべきであろう。

 もとより芸術だから絵画だからととりわけ構えたり、お高く止まる必要はないし、特に洋画・油絵は技術一辺倒でない間口の広さと奥行きを持ったものであり、初心者からベテランに至るまで多様な可能性を秘めたものであるが、絵画である以上は逸脱してはならない一線と踏まえなければならない原則のようなものが現に存在する。敢えてそのタガを受け入れることが「絵画芸術」というものの妙味に他ならず、それがいやで履き違えた「自由」を主張するならさっさと別のことをやった方が後悔することはないだろう。
 土俵の外でほとんど客観性のない、あるいはプライベートなことをいくら声高に話してもかまわないし、その当事者には一片の関心も持ってないが、ことは「公共の場」でのことであり、「デタラメ」に近い情報がそういうものとして当該公共の場に定着することは、忌忌しきことである。
 作品を見れば判ることだが、純然たる油彩タブローでかつ一定スケールのものををほとんど描いたことがない者、あるいは造形の本道をまともに究めたことがない者が、「造形的視点での」油彩の何たるかが判るはずがない。それらが「絵画とは、油絵とこはこういうものでございます」と知ったかぶりをして他者に関わるということは「ハッタリ」というものであろう。

 次回以降具体的に述べる。

(つづく)