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Ψ筆者作「ガード下の川」(聖橋)F20 油彩

 今回の「実作による考察シリーズ」はこれが最後。もう一度佐伯絵画を風景画史の脈絡から考えてみたい。
 先ず一般的な風景画の価値体系についてである。もとよりこれは風景画に限ったことではないが。

 先ず風景画として効果的な構成ができている事。これは画面のスケールや安定感、緊張感に関わる。次に例えば山や水や木など自然の量感、質感の表現ができていること。これは自然の実在感をもたらす。パースペクティヴの的確な処理により画面に奥行きを感じること。空に高さや広がりを感じること。これにより空気を感じる。古典派は物理的透視図法、印象派は大気遠近法などでこれらを行った。自然の瑞々しや臨場感、何某かの雰囲気の表現は描いている者の心の動きを感じる絵となる。
 逆に言えばこれらが大所高所のことができていないで細部にばかり拘っている絵とは発育不全の子供のようにバランスの悪い絵ということになる。

 古典派はこれらについてアカデミックにもっと徹したもの。厳格なフォルム描写、ヴァルールやトーンの的確な把握、季節感や生活感や自然現象の表現などの「リアリズム」を以って為し、印象派は光や大気などの表現について「色彩」やフォルムを一層解放する方向で為した。
 無論これらは言うは易く行うは難しであるが、今日まで受け継がれている風景画の目指すべき一般的価値体系という事が言えよう。ただ描いているだけの絵、生きてない絵は絵画芸術の世界では評価されない。
 いわゆる「個性」と言われるものはさらにそういうものの中に現れる描き手独自の色彩・フォルム、表現性、創造性、造形的面白さ・工夫、訴求力、精神性など、というものである。
 
 さて上記のような風景画の趣きとはもう一つ違って、創造目的や意義がもっと描き手自身の方に比重がかかるというものがある。つまり上記のような風景画の価値体系はとりあえず劣後され創造の主体たる自我そのものが前面に出てくると言うような絵である。
 一つは始めに造形上のコンセプトがあり、その結果たまたま風景がモティーフとなったと言うようなもの。文字通り現代絵画の分水嶺となったセザンヌのサントヴィクトワールシリーズなどがそれである。それはやがて立体派、未来派などの受け継がれ、「風景」の意味をもまた違ったものへとなって行く。

 もう一つはユトリロの「白の時代」やヴラマンクのフォーヴィズムなど、マティエールやタッチなどの造形性、詩情や哀愁などの表現性などが一層強まる傾向。佐伯もこの系列にある。先に佐伯について「パリというモティーフと油絵という素材のマティエール」と言ったが、もう一つ「精神のマティエール」というべきものがありそうだ。安岡章太郎や横光利一などの文学者の言葉を借りれば「パリのオドロキの情報」といったものとなろう。

 さらに佐伯の風景画については別項の林武の言葉を引用すると≪…然してその結果は寧ろ線の節奏によって逆にバラールを決定しようとしている。こうした新しい方法、私は之を現在の力学的写実というが、この点で誰よりも早く実行し得た1人だと思う。即ち欧人では、その伝統的な「自然に線は無し」てふ厳密な写実的観点から、線が露呈するという様な事は容易ならぬ問題であり、視覚(光の調子)の世界から抜けきる事は至難なのであるが、佐伯にあっては、力学的な調子を捉え、線の抑揚、節度によってバラールを決定しようとする。…≫と言う「新しい風景画」ということになる。
 確かに自然を立体や面で捉えると言う伝統的な西洋絵画の中で、「線」による絵画空間の展開は新鮮である。本邦に於いては青木繁の「海の幸」などもそう解釈できる。これはほとんど「油彩ハッチング」に近い。

 いずれにしろ縷縷述べた経緯により私はこのような佐伯の「造形事業」に妻米子の加筆が大きく影響しているとは考えられない。米子はやはり「プロデューサー」的意義に留まるべきだろう。
 まとめると「佐伯+米子」は基本的に「佐伯」と言ってよい。ただその「佐伯」レベルが著しく低い場合は「米子+他人」と同じく「贋作」とみるべきだ。なぜなら「創造」のモラルやオリジナリティーというものに鑑み、自ら絵を描く者としてはそのようなものは「その人作」として認められないからである。