以前上掲のような傾向の絵を描いていたことがある。別に佐伯に傾倒していたわけではない。むしろユトリロの方だ。それからもっと写実の方に進んだのにはわけがある。
 一つはあのような画法は他にいくらでもある。もう一つは口幅ったいがこの程度の絵ならいつでも描けるわい!と言った意識があり、どこか物足りなく感じさらに先に進んでみたいと思っていたのである。
 当時は絵画芸術における「筆の置きどころ」の重要さの認識はなかった。
 客観的評価に於いても「暗い、線が硬い、粗い」など言われたが、決定的だったのは「ヨーロッパの街や自然との出会い」ということだ。

 それは圧倒的に美しかった!堰を切ったように噴出した、長い間暖めてきた「絵画的風景」へのイメージの受け皿として十分だった。それを余すとこなく表現したいと思った。つまり。佐伯やユトリロのように「グシャグシャ」と描いてしまうということがどうしてもできなかったのである。
 勿論それは誤りでないと思う。我師コローやフランドル・オランダ風景画などは決してグシャグシャと描いていない。しかし一方、そういう「風景美の情報」の中にははグシャグシャと描くことによりいっそう伝えられるものがある。

 ユトリロの絵は「現実のパリよりパリである」という言葉がある。佐伯をめぐる「日本人が驚いた≪パリの情報」≫」という安岡章太郎らの言葉もそういうものであろう。
 実はこれがリアリズムとはまた違う絵画芸術の大きな意義なのである。ユトリロや佐伯の才能とは正にこういう、油絵と言う素材を活かした、情報の吸収力と表現力と時を得た「筆のおきどころ」言って良い。

 今後自分の画法がどうなるか判らない。「リアリズムを踏まえつつイメージの世界の展開」というコンセプトは目指したいもの、しかしこれはジジイになったら骨が折れるだろう。(笑)老後のことを考えると(大笑)もうちょっと「楽な画法」が良いかもしれない。

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