≪抽象(abstract)≫を辞書で引くと「事物または表象からある要素・側面・性質をぬきだして把握すること。」とあった。文字通りでは「象(かたち)を抽きだす」ということである。
さてその「抽象」は、元々の哲学的意味や最初にそれが使われた経緯を詳しく分析する必要性はあるかもしれないが、解釈通りに捉えた場合、本来のそういう意味と現に絵画芸術上などに存在している漠然としたその概念とは一致しているだろうか?
元々そういう区分け自体が意味がないとか、どこに一線を画すかは現実に困難であるという理屈は置くことにしてそのズレについて考察したい。
一般的には具象とはハッキリものがそれと分かっているもの、抽象とは何かハッキリしない、意味もワケわかんないものと捉えられて来たし、絵画芸術の分野においても便宜上そのような区分に格別の不都合も生じなかったのでそれが一応定着した感がある。
しかし、例えば風景画においては、自然から、自我というフィルターを通して、美しい絵画的秩序に適う部分を切り取り、その色彩やフォルムを絵画空間として再構成する、あるいは自然の大らかさ、瑞々しい生命感や命あるものの息吹などを抽出して表現するわけであるから冒頭の定義に従ってもそれは完璧に「抽象行為」であろう。人物も静物も然り、その美しい部分を抽出して再構成する事に変わりない。
分かりやすい例がセザンヌである。彼は、「自然は円筒形、球形、円錐形に置き換えられる」というよく知られたその発言にあるごとく、まさに自然を幾何学的に分析し、フォルム、色彩などの純粋な造形要素のみを抽出して、独自の絵画空間として再構成した。そのことによりその後の「抽象」を含む現代芸術の源流として位置づけられることになったのは周知のことである。しかし造形上の行為は完璧に抽象行為であるのに、出来上がった作品は形がハッキリしているからということで具象画に分類されているのである。これは道理に合わない。
一方、別項で述べた「無原罪の御宿り」なども「抽象行為」である。ただ抽出した対象が人物や風景という現実の造形モティーフではなく、キリスト教に係る「イマジネーション」からというところが違う。
ムリリョなどの例で言うなら、「純潔」をあらわす白の服を纏い、天を見上げ直立している聖母マリア、マリアに踏んづけられている邪悪を表す蛇や三日月、マリアを取り巻き、その高潔を祝福するかのごときエンゼルだかキューピッド、そして天国から差し込む光のなかを舞い降りる「聖霊」の象徴たる白い鳩、全部イマジネーションでありそれがが一定の「図像学」を踏まえて具現化されたものである。
ということは、抽象行為の対象たる事象とは人間の外部のみならずイマジネーションなど内部にあるものも含まれるということになる。
したがって、創造者の美意識や造形感覚や思想を積極的に抽出して作品というかたちで具現化するという意味の「抽象画ならば」それに該当する。
つまりその限りでは≪絵画芸術とは全部抽象画!≫と言える。抽出した結果何らかの形でフォルムが残っているものを具象、フォルムが溶解してしまったり全く別のフォルムが創られたもの抽象と取り敢えずは言えそうである。
つづく
さてその「抽象」は、元々の哲学的意味や最初にそれが使われた経緯を詳しく分析する必要性はあるかもしれないが、解釈通りに捉えた場合、本来のそういう意味と現に絵画芸術上などに存在している漠然としたその概念とは一致しているだろうか?
元々そういう区分け自体が意味がないとか、どこに一線を画すかは現実に困難であるという理屈は置くことにしてそのズレについて考察したい。
一般的には具象とはハッキリものがそれと分かっているもの、抽象とは何かハッキリしない、意味もワケわかんないものと捉えられて来たし、絵画芸術の分野においても便宜上そのような区分に格別の不都合も生じなかったのでそれが一応定着した感がある。
しかし、例えば風景画においては、自然から、自我というフィルターを通して、美しい絵画的秩序に適う部分を切り取り、その色彩やフォルムを絵画空間として再構成する、あるいは自然の大らかさ、瑞々しい生命感や命あるものの息吹などを抽出して表現するわけであるから冒頭の定義に従ってもそれは完璧に「抽象行為」であろう。人物も静物も然り、その美しい部分を抽出して再構成する事に変わりない。
分かりやすい例がセザンヌである。彼は、「自然は円筒形、球形、円錐形に置き換えられる」というよく知られたその発言にあるごとく、まさに自然を幾何学的に分析し、フォルム、色彩などの純粋な造形要素のみを抽出して、独自の絵画空間として再構成した。そのことによりその後の「抽象」を含む現代芸術の源流として位置づけられることになったのは周知のことである。しかし造形上の行為は完璧に抽象行為であるのに、出来上がった作品は形がハッキリしているからということで具象画に分類されているのである。これは道理に合わない。
一方、別項で述べた「無原罪の御宿り」なども「抽象行為」である。ただ抽出した対象が人物や風景という現実の造形モティーフではなく、キリスト教に係る「イマジネーション」からというところが違う。
ムリリョなどの例で言うなら、「純潔」をあらわす白の服を纏い、天を見上げ直立している聖母マリア、マリアに踏んづけられている邪悪を表す蛇や三日月、マリアを取り巻き、その高潔を祝福するかのごときエンゼルだかキューピッド、そして天国から差し込む光のなかを舞い降りる「聖霊」の象徴たる白い鳩、全部イマジネーションでありそれがが一定の「図像学」を踏まえて具現化されたものである。
ということは、抽象行為の対象たる事象とは人間の外部のみならずイマジネーションなど内部にあるものも含まれるということになる。
したがって、創造者の美意識や造形感覚や思想を積極的に抽出して作品というかたちで具現化するという意味の「抽象画ならば」それに該当する。
つまりその限りでは≪絵画芸術とは全部抽象画!≫と言える。抽出した結果何らかの形でフォルムが残っているものを具象、フォルムが溶解してしまったり全く別のフォルムが創られたもの抽象と取り敢えずは言えそうである。
つづく