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Ψ筆者作「コロー模写」 F10

 ≪転載記事≫

 昔は古典派の絵を見るにつけ「写真みたい~!」との印象を持ちました。現代でもかなりの人がそのような目をもっていると思います。
 確かに写真のない時代,正確な描写は市場性からの一定の要請でもありました。しかし、画家本人は徹頭徹尾造形性に根ざしてモティーフと対峙したものであり、一定の視覚的驚きと言うのは結果付随したものと考えられます。

 例えば、それはそれで逆にあっけらかんとした造形性で現代への特別なメッセージを持つものでありますが、あえてマティエールを殺し、カラ-写真を貼り付けたような、ハイパーとかスーパ-とかいわれ「軽薄な」リアリズムとは全く違うことでもわかります。

 風景画について言えば画家は多分現場でスケッチをし、アトリエでタブロ-を制作すると言う事を繰り返していたと思います。
 当然そこで必要なものは相当密度の濃い自然の観察であり、「画家たる人間の目」を通したものであるのでカメラのレンズなどではとてもカバーできない、造形的視点があったと思います。

 フランドルの「世界風景」、その後の「色彩遠近法」、ターナーなどの自然現象の表現、バルビゾン派の詩情性や生活感、印象派の大気(空気)遠近法やスペクトル分析、フオービズムなどの表現性の導入等はその「成果」でありますし、セザンヌのサント・ヴィクトワール、モネの睡蓮なども画家がその卓越した「造形視力」により常人では見ることの出来ないものを見たことにより生まれたものです。
 機械文明の発達は人間が生来有している五感の機能を退化させます。「造形訓練」はその意味で「造形視力」を養うと言う意味の意義もあると思います。
 
 さて、私はコローの絵にはオーバな表現ですがある種の「コペルニクス的転換」を強いられたような気がしてます。
 先ずそのフォルムです。コロ-の現物を見ましたが、決して釈迦力になってリアルに描いてやろうなどと言う気負いはありません。
 そればかりかタッチは荒削り、ディテールも丁寧ではない、しかし「ブリーフ・アンド・トゥーザ・ポイント」、どうしてあんなに上手いこと雰囲気ある田園や森のレアリティ-が出せるのか不思議でした。
 その秘密を探る為描いて見たのが件の模写です。あの作品は正味ほぼ一日で終わりました。しかし私が何日もかけて苦労して描いたどの絵よりも、環境を支配する雰囲気をもっています。(現に今飾っています)

 その秘密は一つはなんと言ってもモティーフたる良い場所です。しかしこれはどうにもなりません。良いモティ-フを求めて探すだけです。
 もう一つは画家としての詩情性など資質的なものと表現力に係るキャパシテーでしょう。力量です。ギリギリ、精一杯ではない、その余裕が画面の大らかさを生みます。これは相当な技術的修練が伴わなければ造形性に結びつきません。
 次になんと言ってもその色彩です。

これは私なりにコロ-の色彩の特色と思えるものをを抽出した上で多少自分固有の色合いで調整を計ったものです。 
 コロ-の緑は当時大変な評判になったようで、私はその緑が何か人間が普遍的に持っている特に好ましい色感を擽るような力があると判断してます。
 ところで「カラリスト」という言葉がありますが、一般的には色味が綺麗な、原色に近い、印象派以降の画家の色彩を指したり、「色彩の魔術師」ボナールのような、微妙なニュアンスやハーモニ-をかもし出す画家の色感を言ったりしますが、また怒られそうですがこれも私に言わせれば皮相な見方ではないかと思います。

 先に書いたように、コロ-の色彩はなかなか出せません。パレット上で出せても、絵画空間の中の生きた色彩として、叙情性や詩情を醸し出すものとするには至難といえるものです。
 先ずこの色彩が乗るフォルムの処理が重要です。これ以上の描写もこれ以上のデフォルメもバランスを崩すような気がします。
 次にコロ-独特の卓越したヴァルール処理、特に微妙なグラデーション処理とその色彩は連動してます。「スパイス効果」も効いてますまた、マティエールも程好く残してます。
 いろいろな造形処理がその色彩を支えていますし、詩情や物語性などの表現性はその色彩でこそ生かされています。
 触れば染まってしまいそうな緑です。これほどの「カラリスト」はいるでしょうか!?
 本当に自分の画業を象徴するような「支配色」を持った画家であったと思います。
 自己の絵画世界を構築すると言う事は,自分の色彩を持つということではないか,そのように考えています。


 
 最近コローの絵の「秘密」が分かってきた。それと同時に当たり前の事であるが、コローである必要もないという気も改めてしている。

 モネの晩年の視力の衰えは、本人にしてみれば耐えがたい苦しみであったかもしれないが、何かそれは造形世界の一方の極致に至らしめるべく、その能力を有するものに「神が与えた≪福音≫」のような気もする。
 「モネは眼に過ぎない。しかし何という素晴らしい眼か!」と言ったのはセザンヌだったか、その「視覚」に着目したのはさすがと思える。まさにモネはその視力のハンデにより現実の世界と造形世界が渾然と溶け合うような絵画空間を創り得たのではないか。
 だからこそあの「睡蓮シリーズ」のごとき、憑かれた様に何点も何点も、かつ巨大な画面をつくり続けられたのだと思う。かかれている睡蓮は最早植物としての睡蓮ではない。
 これは、セザンヌのサントヴィクトワール・シリーズやルノワールの裸婦連作もそうだ。
 彼らはきっとその卓越した「造形視力」で常人では見ることのできないものを確実に見てたのだろう。