私は当ブログや掲示板などIN上のコミニュティーにおいて、自分の絵画作品や、それに関する体得・知得した範囲内の素材や技法の話、美術史の話及び、一創造者としてのアイデンティティとか思想とかの問題と絡めて、自分が置かれた諸々の環境への存念等を≪自由に純粋に≫語りたいと思っているしそうしてきたつもりである。

 したがってどんな絵を描いているか、どんなことを考えているかなど、表示し、投稿し、記事にしているもの範囲内で判断してもらえばそれで十分と思うし、そのことについての評価、異論反論から無視黙殺まで総て受け手の自由であるので、私個人が何者であるかとか、そのための「資格要件」とか一切の前提は必要ないはずである。
 また、こうしたコミニュティーの匿名性についても、それは自由な発言を担保するものであるし、いろいろな対人上の不都合も回避できるし、先入観や偏見を排する意味でも勿怪の幸いと考えている。

 しかしながら昨今いろいろなことでそういう私のスタンスに桎梏となるような雰囲気を直接間接に感じている。例えば「プロ・アマ」の概念や市場性とは、早い話が芸術やその創り手の価値を金銭に換算して語るというものであり、その「価値観」自体は芸術のあり方と違背するものである。だからそれらの概念を私の投稿・記事等に導入して語るというのは冒頭述べた趣旨に鑑み意味がないし不本意なことである。

 私はいろいろなところで再三言ってきたが、「プロ・アマ」のレッテル貼りには組みしない。それは創造行為と向き合う場合何の前提にもならないし、利益ももたらさないしばかりでなくそれを冒涜するものとさえ言える。
 それは≪…モティーフたるものの見方にプロ的、アマ的があるだろうか?そもそも芸術に通い合う精神にプロ的・アマ的あるだろうか?造形の本道にアマはここまででよいということがあるだろうか?≫という私の思想による。それは当たり前のことであり、絵画芸術の目指すべき理想でもあろう。絵画芸術を純粋に捉えるとはこういうことだ。だからこういう場でそれをそのまま言うのだ。

 ところがそれを私が「プロであることの脆弱さ」を以ってして恣意的にその垣根を取り払おうとしているのではないかと甚だしく曲解されたら件の私のスタンスに大きな桎梏となるのである。
 以前、これから造形の本道を前向きに究めていこうという意思を持つ人が何人かいた。一方にそのことに害になる論調があった、だから私は件の立場でそれに異論を唱えた。それに横槍を入れたので「自分の意見は他でやってくれ、迷惑だ」と言ったら、逆上して「おまえの絵は売れてるのか!」と来た。

 あるいは昨今の世界情勢に鑑み、史実と第三世界の立場を踏まえなければ事の本質は絶対解決しないと言ったら「おまえがそう言う立場に置かれている不満からくる同情心としか思えない」ときた。
 まさに何とかの勘ぐりに類するものだ。そのような前提でしか話が出来ない当人の知的レベルは推して知るべしだが少なくても私の記事等への悪影響は考慮しなければならない。有害な概念が割り込んでくることは認められない。

 そこで私は冒頭述べた、表示し、投稿し、記事にしている総ての動機の純粋性を担保するために一言を要する必要を感じた次第である。これは私にとって余り愉快な作業ではないし、自分をめぐる、いわく因縁、故事来歴、出処進退を仔細に語るつもりはないので要約して語る。

 (つづく)