「一体どんな絵が良い絵か!?」などと言っても、かく言う私も日々それを求めて悪戦苦闘している身、それが簡単にできれば苦労はないというものだ。ましてやその価値基準や体系が本来「芸術」の名の下に一つであるべきが、いろんなところで多様化(画壇、市場、市民的嗜好など)していると言うのが現実なのであるが、やはり厳然としたものは存在するということはその先達の教えるところである。

 絵画がどういうものであるべきかということを一言で言えば、当たり前の話だが「絵画的であること」ということになろう。絵画的というのは、「文学的でない」、「工芸品的でない」、「写真的でない」、[科学技術的でない」、「商業美術的でない」…即ち絵画以外のなにもの「的」でないということ。絵画固有の、色彩、フォルム、マティエールなどの特性、属性を十分生かして絵画以外のものでは為し得ない造形空間を創造し、絵画特有のメッセージ性を有するという意義に適ったものであるであるということになろう。

 「写真みたいに描けてる!」というのは決して誉め言葉ではない。
 色彩、フォルムなどの固有の生命が絵画空間で生き生きと展開しているような絵が、本来の活きた絵と言うことになる。しかしここでもただ塗りたくり、描きまくれば良いというもではない。そう感じさせるためにはそのような「絵画的効果」を計る必要がある。

 「絵画的効果」」とは、色彩の混合、ニュアンス、ハーモニー、フォルムやトーンの処理方、あるいはデフォルメ、それらのバランス、リズム、構成・構図、マティエール、ヴァルール、疎密のメリハリ…等種種の造形要素の組み立てによりもたらされる、本来伝えたいものにかかる効果である。これらの感覚を本能的に具備し、絵画本来のメッセージを赫奕として伝えられる者をいわゆる天才と言うのであろうが勿論それを基準に語ることは出来ない。

 ともかく、実は自由で感覚的な絵ほど上記のような理知的なものが求められたりするものだ。不思議と言えば不思議だが、見る側にも「造形秩序」のようなものがあって、そうしたもので破調のないものこそが快く受けとられるものである。

 こうして出来上がった作品とは一つの「真実」であろう。即ち芸術の最大の目標とは一つの「真実」を創造し表現することである。だからこそウソだらけの世の中にその存在意義があるというものである。そしてその目的に適うなら表現手法はウソであっても良い。ただその真実の為には自己が真実でなければならない。
 以下一部別記事と重複する記述となるがさらに具体的に考察する。

 自己の真実とは、自分の目で見、感じ、解釈し、あるいはイメージし、構成し、自分の色彩やフォルムで絵画空間を創造することに他ならない。だから「借り物」は修業に伴う模写等を除き全く意味がないのである。ここに「オリジナリティー」の真の意味がある。
 絵画とは、自我が解釈する世界、自我のフィルターを通して見る世界、自我の「思想」を投影させた世界、自我がイメージする世界、自我が作り出したい世界、その具現化に他ならない。

 そのモティベーションやプロセスそのものの造形的密度が生きた絵を創る。一生懸命モティーフを追い、自己の感覚や技術を全力で傾注している絵とは、例え「ヘタ」でもその姿勢そのものが必ず何某かの感動を与えるものである。芸術性とか個性などというものは放ってても後から付いて来る。描写主義やリアリズムとはそういう関わり方の一形式に過ぎない。

 例えば風景画について言えば、自然を美しいと思い、何某かのイマジネーションを感じ、絵にしたいと思うモティベーションが湧く。それを見る目の動きが有る。通い合う心の動きがある、それが密度を保って手の動きに連動した時活きた絵となるのだ。
 赤いりんごも物質としてのその外形描写に留まっていたのでは意味がない。描きたいものはガリッとかじったらジュースが飛び出そうなカチッとした質感、その瑞々しさ、生命感ではないのか?あるいはりんごという色・形を借りての自我の何ものかではないのか?
 人物も然り。血の通った、暖かみのある、人間性さえ感じさせたい、そういうものが絵画だ。

 写真を見ながら描くというのは、一応自我の絵画世界が確立している画家が資料として援用する場合、ハイパーリアリズムなど特殊な造形、画家がいろいろな職業的事由でやむを得ず採用する場合等を除き邪道と言って差し支えない。
  写真とは現象を一定の角度から見た「切り取られた結論」でしかないからだ。現象を「解釈しながら」組み立てていくという「プロセス」がない。それはその「結論」から始まるので勢い、「転写しに終始し「絵づくり」を急ぐ。そういうものが活きた絵になるはずがない。
 絵画とは「切り取られた結論」を描くのではなく生身のモティーフの側面も背面も空間の雰囲気も含めて描かなければならないものである。

 縷縷述べたようなことは理屈では分かっていても現実には難しい問題だ。そこで一定の「修業」が必要となる。例えば油彩の場合、油絵という素材をある程度こなせるようになることが必要だ。こなせないとその重い素材に「描かされて」しまい前述のような絵画的効果を狙うに至らない。そこで先ず素材への慣れと一定の知識が必要ということになる。

 次に問題となるのが表現技術的な修業である。これは何も写実主義、リアリズムのみに適用される者ではない。自由奔放な絵もそのメッセージの桎梏となる不自然さや不安定さは取り除いておかねばならない。何よりも伝えたいものを伝えられるようにするには一定の表現力は必要である。
「デッサン」はその合理的方法である。

(続く)