以前どこかで書いたことをもう一度書く。

 かつてこの国は国家神道と皇国思想を国是として「鬼畜米英、うちてしやまん、一億玉砕」のスローガンのもと内外に数多の犠牲者を生んだ大戦争をやってきた。ところが負けたとたん手の平を返すように「日米は永遠のパートナー」、ドルから安保、ディズニ-マンガにいたるまでアメリカ様様!
 あの戦争はなんだったのか!とは三島の「英霊の声」ならずとも問いかけたくなる。正に壮大な民族的「ご都合主義」と言わなければならない。

 もしこれらの犠牲者の死を無駄にしないとするなら方法はふたつしかない。
一つは核武装を含めいっそう強大な軍事国家を作りアメリカに「リベンンジ・マッチ」を挑む事.もう一つは、かの戦争に駆り立てた国家の誤ったメンタリティーを排除し、反省にたった上平和を希求することである。
 そしてこの国は敗戦時点で後者を選択した。天皇は「現人神」でなくなり国家神道も皇国思想も否定されたのである。
 然るに昨今、イラク戦争を積極支持する、アメリカの世界戦略に迎合した改憲論議が起こるなど、先のご都合主義の上塗り、再びあの戦争はなんだったのか!?とといかけたくなるようなキナ臭いムードが漂う。
 
 ところで例えばヒットラ-の造形的に優れた肖像画があったとしよう。もし画家なり評論家なりが第一義に「ホロコースト」に毛頭思い及ばずして、その造形性のみに心奪われるなら、その職業的価値以前に≪人間性が問われる≫だろう。画家も評論家も人間以前にそれである必要はないのである。

 日本の神話にも同じことが言える。日本の神話とは国家神道、皇国思想そのものだったのである!繰り返すがそれらは私ではなく新憲法下の国家自体が否定したものである。神話自体も国家権力の国策の手垢にまみれたものである。
 そして「八紘一宇」から「神風」、「回天」に至るまで、日本の神話ほど国内に留まらず≪人間の存在と尊厳≫に「攻撃的」に介入したものはない。そうした≪余りに大きい事実≫に目をつぶって、そのものの意義だけを認めるということができるだろうか?、例えば絵画におけるモティーフとしての意義だけを認めるというのは「ヒットラ-の肖像画」の造形的意義だけに着目するのと同じでなないか!
 
 イラク戦争開戦前夜、世界中で数千万の反戦の和が広がった。だが日本ではディズニランドは満員でもそれらしい動きは目につかなかった。一部演劇人や文筆家が組織だった反戦のアピールをしたようだが美術組織でその動きは聞いたことがない。
 政治、軍事、憲法を巡る動きは件の通り。

 そのような背景事情あるなか、例えそれが邪心のない純粋な造形的モティベーションであっても、一度国家に「悪用された」、日本の神話をことさら題材にした絵を描くということに、一定の懸念の表明した某画家は、人間として、画家として当然のことをしたのである。これは良心の問題である。

 むしろこうした事に対する認識の甘さ、警戒心の無さこそに驚きを禁じえない。