私が主宰しているオンラインサロン。会員様との交流もありますが、エッセイストらしくw 旅の長文や画像も掲載しています。こんな感じで載せてるよ~と以前Upしたインドネシアはバリ島の文章です↓↓

 

 

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その恋で得たものは~インドネシア・バリ島~
 
 十代のころ、付き合うか付き合わないか大いに盛り上がっていた知り合ったばかりの男の子が、バリ島へサーフトリップに出かけた。大学の長い春休みを使って3週間の旅。盛り上がっている若いふたりには長すぎる旅程に、旅立ちの朝、カレとの別れを惜しみつつ私は成田までクルマで見送りに行った。
 
 当時はメールやLINEなどもちろんなかった。学生には国際電話をかける小遣いもなく、離ればなれの間お互い手紙を書き溜めてカレの帰国後渡し合った。手紙には3週間の詳細な旅日記が書かれていた。ワニとサメが出るサーフポイントで怖々サーフィンしたこと。ポイントまでは細長いボートで向かい、その舟はサーフィン中ずっと待っていてくれること。道端に水牛がいること。屋台では150円も出せばお腹いっぱいに夕飯が食べられること。毎朝島の人々が家や店の前にチャナンと呼ばれるお供え物をしていること。お香のかおりで町中が満たされていること。旅最終日の夜、崖の上の寺院でケチャックダンスを見て、それがとても幻想的だったこと……。
 
 カレの手紙に書かれていた内容はあざやかな映像としてするする入ってきた。そのころ私は、海外旅行と言えばアメリカは西海岸やハワイやグアムなどの島をちょろっと。ヨーロッパも大学の研修旅行でサクッと回ったくらいで、アジアは完全に未開の地だった。何不自由なく整った日本で生まれ育った者にとって、バリ島はワクワクする冒険の舞台のように聞こえた。また、当時の私はこれといった趣味がなく、街でブラブラ遊んでいた。だからサーフィンという世界中を旅できるキッカケを持っているカレがうらやましくもあり、同時に胸がチリチリする嫉妬のような気持ちも抱いた。
 
 若い恋は長く続かなかったが、バリ島に対する羨望の想いは私の心に残っていた。そして趣味を楽しんでいるカレの姿に感化され、いろんなことに目を向け始めたのはその恋の収穫だったのかもしれない。残りの大学時代はクルマで野宿しながら日本一周。卒業後はオートバイに乗り、二輪つながりで自転車も楽しむようになった。山登りも趣味に加わった。気付けばすっかり多趣味な女である(笑)。しかもどれも触りだけでなく、かなり本格的に取り組んだ。何かを楽しむには「コツ」が必要で、それさえわかればトントン拍子に世界が広がっていくことを知った。
 
 さらには28歳のとき、あるサーフィン番組のレギュラー出演の仕事を受ける。10代のころ付き合っていたカレがドはまりしていたあのスポーツである。交際当時からその趣味はジブンには合わない。絶対手を出さない領域だと思っていた。けれど仕事ならやるしかない。なんなのだろうこの縁は。ジブンが一番驚いた。しかもサーフィンには「なかなか上達しない」というもどかしくも不思議な魅力があり、回を重ねるごとに夢中になった。番組スタッフにそろそろ浜に上がれとサインを出されても見なかったふりをして、ふたたび沖へ向かうほど熱を上げた。
 
 サーフィンを始めて6年、34歳の2月。おそらくその趣味に一番入れこんでいた時期、仲良くしていたサーフショップのバリ島ツアーに参加した。バリの波は日本のそれと比べたら数段パワフル。しかも海底は岩礁だ。ヘタしたら足をザックリ切りかねない。初心者には危険な海に、ようやく私も行けるときが来たのだと、その旅の数ヶ月前から毎週のように千葉の海へ通い練習を重ねた。
 
 バリ島には夜中に到着した。飛行場の外に出るとねっとりした熱気がまとわりついた。深夜なのにひまそうにうろついている男たちがたくさんいて、彼らの目は心なしかギラついているように見えた。この島をしょっちゅう訪れている仲間と一緒だったので、特段困ったことはなかったが、サーフィンではまんまとやられた。ドッカーン! と、豪快な音を立てて砕ける大波。しかも海底は浅いリーフ(岩礁)。さっそくスネを大根おろしのようにザザッとすった。リーフでこさえた傷はなかなか治らず、その旅から数ヶ月経っても跡がハッキリ残っていた。
 
 海からの洗礼を受け、さらに食事でもやられた。バリ料理が好きなヒトには申し訳ないが、私にとってその島の食事は味がくどく、それでいて単調で、なんというかスナック菓子の味付けみたいだった。たまに口の水分が取られるようなパサパサしたおかずもあった。食べられるものが少ないとなると最後の頼み、全世界共通ビッグカンパニーのファストフード店に行くも、ポテトにつけるケチャップが甘すぎたり、サラダのドレッシングにパンチがなかったり、ふだんならガツガツ食べる私だがいつになく食欲を無くしていた。旅に出るとたまにこういうことがあって、ずいぶん前に訪れた沖縄の某小島では食べられるものが何もなく宿泊の予定をあわてて縮めた。
 
 波に食にやられてばかりだが一番疲れたのは値段交渉だった。バリ島以外にもアジアの国々を旅していると、いまだ店頭の商品に値札が付いていないことがある。インド、ネパール、何度も足繁く通ったのはタイ。マレーシアにも行った。どの国もたいてい値段交渉で骨を折った。値切りコミュニケーションが身についている大阪人なら穏やかに相手の懐を探り、的確に交渉できるのだろうが、定価で物を買うのが当たり前ののんびりした関東人の私は、もうダメお手上げ……なんて言っていられず、ジブンなりにがんばったと思う。向こうのペースに乗せられたら最後、後に訪れる日本人に迷惑をかける。きっと前の日本人がちゃんとしなかったから私たちがボラれているんだ! ほとんど意地になってディスカウント交渉にいそしんだ。
 
 ともあれ、私が初めてバリ島を訪れたのは34歳の2月だった。10代だったカレは、現在のようにさほど観光ズレしていなかっただろう素朴なこの島で、いったいどんな刺激を受け、どんなことを思ったのか。バリ島を旅行中、何度もカレの顔が浮かび上がってきた。
 
(つづく)
 
 
●キャプション/メモ
 
ジュクンとはインドネシアでの舟の呼び名。細長いアメンボウのような形をした釣り舟をチャーターしてサーフポイントへ向かう。サーフィンを楽しんでいる間、船頭たちはここでずっと待っている。けれどやり手の船頭は新しい客をどんどんピックアップし要領よくこなす。
 

 

 
バリ土着の信仰とインド仏教やヒンドゥー教が習合した信仰体系である“バリ・ヒンドゥ”。島民の9割以上を占め、人々はこれに従った生活を送る。街のそこここに寺院があり、ユニークな表情の石像が佇む/あらゆる場所に置かれているチャナンはバリ・ヒンドゥを信仰する島民が神様に捧げるお供え。やしの葉で作られたお皿に色とりどりの花を入れ、線香に火をつけて置いてある。うっかり踏んでしまいそうでバリにいる間、常に下を見て歩いていた。

 

 

 

インドネシア風焼きそばのミーゴレンや、炒飯を意味するナシゴレンや、肉や魚を串焼きにするサテや、日本のアジアン・レストランでバリ料理は何度も食べたことがあった。おいしいイメージだったが、あの味は日本で作られた日本風のバリ料理だったから……なのだろうか。何度もバリ島に足を運ぶが、「コレだ!」というバリ料理に出合ったことが未だ無く……。現地ではビタミン補給のためサプリメントが必須。

 

 

 

一番最初にバリ島を訪れたとき、カブベースで作られた125ccのスクーターが私たちのアシ。左にボードを積むキャリアが付いている。これで海に向かうのだが、なんとも気持ちいい。しかも海から上がった後、水着で気兼ねなく移動できる。日本では何年か前に禁止になったらしいが(湘南とか)、もっともラクな海スタイルかも。写真はスランガン島という東側のポイントに向かうための料金所。

 

 

 

タの海岸沿いにあるマクドナルドではドナルドがサーフィンしている。

 

 
 
お盆や正月など長い休みになると、テレビのニュース番組では「休みを海外で過ごす人たちの出国は○○日がピークです」などと、こういうおっちょこちょいなサーファーの姿を映す(笑)。板2枚にヘルメットを入れた大荷物でバリ島へ。

 

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忘れられない世界の旅のエッセイ。長文とたくさんの写真でお届け中。それからお気に入りの温泉、GoToトラベルネタ(紆余曲折しまくりのGoToですが、私が経験したGoTo宮古島でのトラブル、割引金額、地域共通クーポンについての注意、赤裸々にリアルタイムで載せてます)。そのほかにも旅のこと、収納とかオススメおつまみなどプライベートのこともいろいろ書いています。
 
週替わりでテーマを決めて会員の皆さまの質問に動画などを交えながらじっくり答えております。マンツーマンみたいな感じで丁寧に答えるよう心がけています。
 
会員の皆さまとの交流のほか、月に数本ココでしか見られない旅の長編エッセイも掲載。リモート呑みも毎月開催!3月もマンツーマンor少人数でリモート呑み予定!! 27と28の夜に行いました。メンバーの皆さまと、クローズドなサロンならではの交流ができれば。7日間無料ですので、この機会にぜひ!