孫のひなた(陽菜)が生まれてもうすぐ5ヶ月。

ひなと呼んでいます。

順調に育っています。

また日々変わっていきます。

近くに住んでいても、私はなかなか会えないのですが、

週1,2回ぐらいの割合で、娘が孫のひなたを連れてきます。

久しぶりに会うと、顔を覚えていないのか

最初は きょとんとした顔をします。

直に思い出したかのように笑ったりします。

私の後ろの方を見たり、上を見たりします。

ひなたは何を見て、何を感じているのか、、、。

そういえば、私の下の娘は小さい頃から

俗に言うプラーナを見ていたそうです。

誰もが見ているものだと思っていたと言っていました。






ひなの生後3ヶ月
月曜日、家内のがんセンターの診察でした。

主治医が代わりました。

前の主治医は4年くらいの付き合いでしたが、東京へ移動とか、、、。

これで三人目。

40才の男先生でした。

最初の主治医は女先生。厳しいことを言われましたが、

手術の腕はかなりでした。後でガン友さんが日本で5本の指に入るとか。

この先生の手術前の言葉。肺にがん細胞があり、ステージ4になり

「残念です。」この言葉がかなりショックを受けました。

当時、家内は知りません。

3年位の付き合いでした。

次は50代の男先生。 かなり雑な先生だという印象。

最初からケチがつきました。同姓同名のおばあさんと間違えた。

モニター、カルテばかりみて、本人の顔をみないから間違えるんだぞ(怒り)。

この先生の言葉。 行くたびに 「奇跡ですね~。」

何言ってるんだ、再発するのを待ってるのか!

こんな調子だから、あまり話さなかった。

最後の診察は適当だった。

3人目。 まだわからないが、神経質そうな男。

家内が聞いた。「あと何年がんセンターに来ないといけないんですか?」と。

先生曰く 「末期でしたから、10年経てば、地域診療へ移行しますよ。」と。

あと2年半で再発がなければ、がんセンターとおさらばとなる。

しかし 見えないがん細胞はなくなっているわけではない気がする。

ガン幹細胞は消えているのかわからない。

誰でも1日5000個のがん細胞が生まれてくるという。

それを自分の免疫細胞がやっつけてくれるが、既にある幹細胞はどうだろう。

年を取るにつれ、免疫細胞も衰える。

今家内には、ヤクルト400を毎日1本飲ませている。

もう半年ぐらいは飲んでいるだろうか。


がんセンターがおさらばとなっても、

ガンとの付き合いはこれからも続くのであります。


あまり気にしないようにしよう。

最初の1年目に比べれば、気持ちは雲泥の差があります。








久々です。

早いもので、昨年亡くなった義姉の一周忌が近づいてきました。

4年前亡くなった兄のガン治療中に間質性肺炎と判り、自分の治療をしながら

兄の看病をしていました。病院から処方された薬を飲んでいましたが

兄が亡くなってその一年後膀胱がんの末期と分かり、亡くなる1ヶ月前に

尿道確保のためのバイパス手術をしていました。

その手術の2,3日後から調子が悪くなり、ベッドに横になって寝ることが

できなくなっていました。その頃私の携帯に 「○○ちゃん(私) 

苦しくて寝れない。横になると痛くて寝ることができない。

死ぬかもしれない。」と

義姉の声が、、、これが最後の言葉でした。

1ヶ月あまり横になって寝ることもできず、死ぬ2,3日

まえから昏睡状態に入りそのまま亡くなりました。

なんと壮絶な死に方なんだろう、、、。


義姉にはいろいろお世話になりました。

私の手のことも相談しました。

義姉の親戚で正一位神社の神主がいて、義姉も幼い頃はよく遊びに行った事、

そこでの出来事を話してくれ、「○○ちゃん 一生勉強だよ。頑張りなさい。

人のあれこれを気にしてはいけないよ。自分の信念を貫きなさい。」

と言ってくれました。

この言葉は、ある男性からも言われた事がありました。



私が若かった頃(東京にお出てきた頃)は、田舎とは疎遠で、

義姉とはほとんど話したことがなかったのですが、家内が病気になってから、

兄が病気になってから、話すようになり、兄の一周忌の時、

日本海側の角島に連れて行ってくれたのが、最初で、最後の旅行でした。

今度 親父の生まれた四国愛媛に行こう。そうすれば水軍である先祖代々のこと、

じいちゃんの事、武田の末裔のばあちゃんの事がもっとわかるかも

しれないよ。と言ってくれましたが、叶わぬこととなりました。

いつか四国へ行って、その地に立つと何かを感じるかもしれません。



義姉の冥福を祈ります。