月曜日、家内のがんセンターの診察でした。
主治医が代わりました。
前の主治医は4年くらいの付き合いでしたが、東京へ移動とか、、、。
これで三人目。
40才の男先生でした。
最初の主治医は女先生。厳しいことを言われましたが、
手術の腕はかなりでした。後でガン友さんが日本で5本の指に入るとか。
この先生の手術前の言葉。肺にがん細胞があり、ステージ4になり
「残念です。」この言葉がかなりショックを受けました。
当時、家内は知りません。
3年位の付き合いでした。
次は50代の男先生。 かなり雑な先生だという印象。
最初からケチがつきました。同姓同名のおばあさんと間違えた。
モニター、カルテばかりみて、本人の顔をみないから間違えるんだぞ(怒り)。
この先生の言葉。 行くたびに 「奇跡ですね~。」
何言ってるんだ、再発するのを待ってるのか!
こんな調子だから、あまり話さなかった。
最後の診察は適当だった。
3人目。 まだわからないが、神経質そうな男。
家内が聞いた。「あと何年がんセンターに来ないといけないんですか?」と。
先生曰く 「末期でしたから、10年経てば、地域診療へ移行しますよ。」と。
あと2年半で再発がなければ、がんセンターとおさらばとなる。
しかし 見えないがん細胞はなくなっているわけではない気がする。
ガン幹細胞は消えているのかわからない。
誰でも1日5000個のがん細胞が生まれてくるという。
それを自分の免疫細胞がやっつけてくれるが、既にある幹細胞はどうだろう。
年を取るにつれ、免疫細胞も衰える。
今家内には、ヤクルト400を毎日1本飲ませている。
もう半年ぐらいは飲んでいるだろうか。
がんセンターがおさらばとなっても、
ガンとの付き合いはこれからも続くのであります。
あまり気にしないようにしよう。
最初の1年目に比べれば、気持ちは雲泥の差があります。
主治医が代わりました。
前の主治医は4年くらいの付き合いでしたが、東京へ移動とか、、、。
これで三人目。
40才の男先生でした。
最初の主治医は女先生。厳しいことを言われましたが、
手術の腕はかなりでした。後でガン友さんが日本で5本の指に入るとか。
この先生の手術前の言葉。肺にがん細胞があり、ステージ4になり
「残念です。」この言葉がかなりショックを受けました。
当時、家内は知りません。
3年位の付き合いでした。
次は50代の男先生。 かなり雑な先生だという印象。
最初からケチがつきました。同姓同名のおばあさんと間違えた。
モニター、カルテばかりみて、本人の顔をみないから間違えるんだぞ(怒り)。
この先生の言葉。 行くたびに 「奇跡ですね~。」
何言ってるんだ、再発するのを待ってるのか!
こんな調子だから、あまり話さなかった。
最後の診察は適当だった。
3人目。 まだわからないが、神経質そうな男。
家内が聞いた。「あと何年がんセンターに来ないといけないんですか?」と。
先生曰く 「末期でしたから、10年経てば、地域診療へ移行しますよ。」と。
あと2年半で再発がなければ、がんセンターとおさらばとなる。
しかし 見えないがん細胞はなくなっているわけではない気がする。
ガン幹細胞は消えているのかわからない。
誰でも1日5000個のがん細胞が生まれてくるという。
それを自分の免疫細胞がやっつけてくれるが、既にある幹細胞はどうだろう。
年を取るにつれ、免疫細胞も衰える。
今家内には、ヤクルト400を毎日1本飲ませている。
もう半年ぐらいは飲んでいるだろうか。
がんセンターがおさらばとなっても、
ガンとの付き合いはこれからも続くのであります。
あまり気にしないようにしよう。
最初の1年目に比べれば、気持ちは雲泥の差があります。
久々です。
早いもので、昨年亡くなった義姉の一周忌が近づいてきました。
4年前亡くなった兄のガン治療中に間質性肺炎と判り、自分の治療をしながら
兄の看病をしていました。病院から処方された薬を飲んでいましたが
兄が亡くなってその一年後膀胱がんの末期と分かり、亡くなる1ヶ月前に
尿道確保のためのバイパス手術をしていました。
その手術の2,3日後から調子が悪くなり、ベッドに横になって寝ることが
できなくなっていました。その頃私の携帯に 「○○ちゃん(私)
苦しくて寝れない。横になると痛くて寝ることができない。
死ぬかもしれない。」と
義姉の声が、、、これが最後の言葉でした。
1ヶ月あまり横になって寝ることもできず、死ぬ2,3日
まえから昏睡状態に入りそのまま亡くなりました。
なんと壮絶な死に方なんだろう、、、。
義姉にはいろいろお世話になりました。
私の手のことも相談しました。
義姉の親戚で正一位神社の神主がいて、義姉も幼い頃はよく遊びに行った事、
そこでの出来事を話してくれ、「○○ちゃん 一生勉強だよ。頑張りなさい。
人のあれこれを気にしてはいけないよ。自分の信念を貫きなさい。」
と言ってくれました。
この言葉は、ある男性からも言われた事がありました。
私が若かった頃(東京にお出てきた頃)は、田舎とは疎遠で、
義姉とはほとんど話したことがなかったのですが、家内が病気になってから、
兄が病気になってから、話すようになり、兄の一周忌の時、
日本海側の角島に連れて行ってくれたのが、最初で、最後の旅行でした。
今度 親父の生まれた四国愛媛に行こう。そうすれば水軍である先祖代々のこと、
じいちゃんの事、武田の末裔のばあちゃんの事がもっとわかるかも
しれないよ。と言ってくれましたが、叶わぬこととなりました。
いつか四国へ行って、その地に立つと何かを感じるかもしれません。
義姉の冥福を祈ります。
早いもので、昨年亡くなった義姉の一周忌が近づいてきました。
4年前亡くなった兄のガン治療中に間質性肺炎と判り、自分の治療をしながら
兄の看病をしていました。病院から処方された薬を飲んでいましたが
兄が亡くなってその一年後膀胱がんの末期と分かり、亡くなる1ヶ月前に
尿道確保のためのバイパス手術をしていました。
その手術の2,3日後から調子が悪くなり、ベッドに横になって寝ることが
できなくなっていました。その頃私の携帯に 「○○ちゃん(私)
苦しくて寝れない。横になると痛くて寝ることができない。
死ぬかもしれない。」と
義姉の声が、、、これが最後の言葉でした。
1ヶ月あまり横になって寝ることもできず、死ぬ2,3日
まえから昏睡状態に入りそのまま亡くなりました。
なんと壮絶な死に方なんだろう、、、。
義姉にはいろいろお世話になりました。
私の手のことも相談しました。
義姉の親戚で正一位神社の神主がいて、義姉も幼い頃はよく遊びに行った事、
そこでの出来事を話してくれ、「○○ちゃん 一生勉強だよ。頑張りなさい。
人のあれこれを気にしてはいけないよ。自分の信念を貫きなさい。」
と言ってくれました。
この言葉は、ある男性からも言われた事がありました。
私が若かった頃(東京にお出てきた頃)は、田舎とは疎遠で、
義姉とはほとんど話したことがなかったのですが、家内が病気になってから、
兄が病気になってから、話すようになり、兄の一周忌の時、
日本海側の角島に連れて行ってくれたのが、最初で、最後の旅行でした。
今度 親父の生まれた四国愛媛に行こう。そうすれば水軍である先祖代々のこと、
じいちゃんの事、武田の末裔のばあちゃんの事がもっとわかるかも
しれないよ。と言ってくれましたが、叶わぬこととなりました。
いつか四国へ行って、その地に立つと何かを感じるかもしれません。
義姉の冥福を祈ります。

