罪悪観に縛られてきた?日本人と「正午定着」 | 親と子の訓読家庭教会

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後天時代に於ける子女教育を考える

先回からの続きですが、皆様は「正午定着」の生活という言葉を聞かれて、どの様な生活を想像されるでしょうか? きっと、それは神様の前に影の無い生活をする事だと言われるでしょう。 しかしその本当の動機は何処からくるのでしょうか? 実を言うと、私が会った何人かの人からは、神様の監視の目を感じる故に、又は自分自身が負債感を感じたくない故に、「正午定着」の生活をしようとしている様子も伺えるのです。 そしてそういう人こそ、むしろ「正午定着」がなかなか続かなくて悩んでいる様です。


日本人の場合、一般に神観やメシア観がシッカリ立つまでに時間がかかると言われています。 更にその上、教会組織の中で必要以上に罪観が強調された教育や、監視体制が中心となったアベル・カインの文化の影響を、もし信仰の初期段階から受てしまうならば、「正午定着」の生活に関しても、食口の中に偏った概念が出て来るのも当然です。


顕進様も、今まで我々の教会全体が、あまりにも組織を強調するが故、食口達が本来の「神」の創造理想と、「神」を中心とする信仰生活の重要性を、忘れてしまっている事に大きな懸念を抱いておられます。 そして特に日本人に於いては、我々が日々一生懸命に御旨を歩んでいる事をとても評価されながらも、本当の意味での神様に対する信仰の根が、一般的にあまり深くない事を心配しておられるのです。


ご存知の様に、統一原理では宇宙の根本原理は「神と人間は親子である」と教えています。 「正午定着」の生活に関しても、その最も基本的な原理の上に立っている事を忘れてはなりません。 そうでなくては、最終的な「正午定着」は結局のところ成就しないと思います。 それどころか、裁きを感じる「正午定着」の生活になってしまい、最悪の場合、負債感の蓄積の悪循環から来るところの罪悪感から抜け出せなくなってしまいます。 神様の方も親の愛を知らないで、罪悪観に悩んでいる子供を見る事はとてもつらいはずです。


それより、もし我々が無条件に我々を愛し見つめる親なる神様を、心の底から信じ、意識し、感じれば、その愛する神様をガッカリさせない為にも、必然的に、そしてもっと自主的に、負債の無い生活をするように頑張るはずです。 そしてその様な神様との心情因縁の成長こそ、成約時代から更に後天時代に入った我々が、僕の段階から抜け出し、徐々に心情的神様の息子・娘の関係へ近づいて行く為の、必須的信仰生活の中心になると思うのです。