前に書いたこのブログの「ある人」について他の生徒のためにもう少し書こう。

 

ある日の練習中、この人物は、

「ヨギバジャンって聖人って感じがしないんだよなー」

と言った。

 

聖人ってなんだろうね。(笑)

武道の世界でいう達人もそうなんだけど、何ができたら達人とか聖人とかよばれるのだろう?

どこかに聖人認定試験とかあるのか?

(笑)

しかし感じがしないという言葉からは、それが極めて感覚的な思い込みに過ぎないということがわかる。

 

ヨギバジャン師は日本では知名度が低く、情報がほとんどないという事実もある。

 

私はヨギバジャン師を尊敬している。

当然だ。

しかし私が彼を尊敬しているのは聖人とかいう意味不明な生き物だと思っているからではない。

彼の伝えたヨガの練習を繰り返し続けた結果、そこで手に入るものの高さを知っているからだ。

それを異国で公開した彼の決断を尊重しているからだ。

普通に考えればわかることだ。

驚いたことに、自由や幸福に普遍的な答えがあったのだ。

もちろん3HOではヨギバジャン師は空前絶後の大聖人ではあるが。

(笑)

 

またこの人物は悟った禅僧を知っているとかで、

「もっと座禅組まなきゃだめだなー」

と私のクラスの練習中に平然と言い放った。

私たちのヨガの瞑想の基本はキルタンクリヤだ。

しかしこの発言からは、キルタンクリヤなど脳裏にキの字も浮かんでいないというのがよくわかる。

そんなもんやる気はさらさらないと。

 

これらの発言がいかに無礼で常識を欠いたものであるかは誰にでもわかると思う。

この人物はなぜかくも無礼で非常識なのか。

 

私の尊敬する中根千枝先生は大ベストセラー「タテ社会の人間関係」の中で、日本人の人間関係とは感情的なタテの結びつきによる序列化だと指摘された。

この人物がやっていることはこの序列化を自分の中でやっているに過ぎない。

 

インドにいる大聖人や知り合いの禅僧をタテに並べて上位とし、ヨギバジャン師やこのヨガを下位のものと並べて断じる。

 

私はこれを「内側の序列化」と呼んでいる。

 

そんなやつクラスから叩きだせばいいという意見もあるだろう。

女性の生徒へのセクハラを繰り返し、他の生徒を太っているなどというくだらない理由で嘲り笑い、教えたことを勝手に変えて注意をすれば不貞腐れる。

また私にたかって一儲けしてやろうと、弱いおつむで悪知恵を働かす。

こんな連中には出ていけというけれど、この人物は違う。

はっきり言えば凡庸なだけだ。

凡庸だという理由で出て行けとはいえない。

 

実際武道の世界でも職場でも、同じような思考様式、つまり内側の序列化しか持てない人間をうじゃうじゃ見てきた。

いちいち怒っていたら身が持たない。

(笑)

 

ではなぜこの人物はクラスに来るのか。

それはある程度の年になると、身体に関する不安につきまとわれるという現実があるからだ。

情けない話ではあるが。

 

しかしだ、確かに私がクラスで実践しているような、横隔膜深奥部の弛緩ということを中心にしてどうやって身体を作るか、などということをテーマにしているところはほとんどないけれど、健康という意味で身体と向き合うならば、例えばインナーマッスルトレーニングに重きを置くキャリステニクス(自重力運動)や少しハードなマットピラティスでもことは足りる。

実際ピラティスでやるロールアップなどというエクササイズは、私が普段言っている上腹部と下腹部のコントロールの仕方ということと通ずる。

何人かの生徒さんにやらせてみたが、誰もできやしない。

条件付けとして、このエクササイズは普通のスピードでもゆっくりやってでも同じようにできるというのが絶対だ。

 

しかし・・・。

しっかりしてくれよ‼おい!!

(笑)

 

 

しかしこの人物はピラティスやキャリステニクスのジムへ行こうとはまず考えないだろう。

それは瞑想になど耽る人間の常で、肉体を精神より低いものだと考えているから。

つまりここでも序列化だ。

肉体だけを専門に扱う練習など見下しているに違いない。

よくよく考えれば瞑想というものは、肉体というものを足掛かりにしているのだと気付きそうなものだけど。

 

 

私はこのヨガは技術だと思っている。

だから数さえこなせば誰でもできると思っている。

 

実はこの手の人物、内側の序列化という意識でこのヨガを軽侮している人物は何人かクラスにいる。

他で習っているものを高いものとし、このヨガを低いものと考えて通っている連中だ。

それが驚いたことに全員とは言わないが、こういう連中にはこのヨガが体に入っていかないのだ。

ただの身体的な技術ではないらしいのだ。

 

おそらくは横隔膜に何か特殊な抵抗があるのではないかと想像している。

それは極めて心理的なものだと思われる。

 

実際、最近日本の伝統芸能の世界に長く身を置いておられた方が練習に参加されてくださっていて、4回目の参加でキルタンクリヤで眼球が動き出すということを理解された。

それがアジュニーチャクラの理解への第一歩だということをすんなり受け止められた。

チベット仏教を学ぶdondrupさんも4回目で眼球が動き出したし、6回目で横隔膜も動いた。

10回1セットの私のところの練習で5,6周すればほとんどの人間はここはクリアできたのに、10周しても体は動かない。

 

取り組み方を改めるのは無理だろう。

教える方としては引導を渡してやる頃合いじゃないかと思う。

金と時間がもったいない。

 

来るなという気はないけれど。

 

 

山本七平とか内田樹のような「ユダヤ学」というものにぶつかった人間は概ね、

「私はなぜそのように考えてしまうのか」

という問いを知り、自ずからに向かって発する。

内側の序列化ということに全く思い至らずにわめく連中を見ていると、悟りだとか解脱だとか覚醒だとか言って瞑想なんかにふけるよりも、私はなぜそのように考え、感じてしまうのか?という問いを自ずからにぶつけ続ける方が、よほど有益なものだと思う。

 

クンダリーニヨガ吉祥寺