「唯識入門」 多田俊映 著
何回も同じことを書くが、大事なことは何回も書くというのはブログの鉄則みたいな気がするのでまた書く。
チャクラ瞑想であるロングチャントにおいてはチャクラの出現と同時に身体の消失感が起きる。
私の場合はそうだった。
意識は通常通りなのだけれど自分の存在だけが消えてしまった。
そこから私が引き出したのは、私たちが通常私だと思っているものとは記憶や感情や思考なのだけれど、奇妙な言い方かもしれないが「純粋な存在」としての私は記憶や感情や思考ではないのだということだった。
ラヤヨガメディテーションの練習では、ある日突然サハスラーラチャクラから突然「気」が抜けあがった。
なぜ抜けたのか?
過剰だからだ。
そしてその過剰とは執着だ。
続いて不思議な幸福感に頭が満たされた。
なぜ不思議なのか?
それは対象を持たないからだ。
それゆえにこの幸福感は、失われず、減らず、奪われることもない。
同時に解放感がもたらされた。
それは「純粋な存在」とは全身に満ちる「気」の働きであり、その気を頭上に放つことによって、「純粋な存在」としての私は肉体という枠組みの頭上に放たれる。
ヨギバジャン師が「無限」と呼んだものはたぶんこれだ。
そう確信した。
これらは論理によって組み立てられたものではない。
瞑想という方法によってもたらされた、いわば「直感知」とでも呼ぶべきものだ。
こういう経験は自分の全く自覚できないところから起きる。
以前いた生徒さんの中には、予兆のようなものをつかもうと懸命になっていた方もいたが、予兆などというものはない。
いきなり起きる。
彼は頭が良すぎたんだねえええ。
なんの予兆もないというなら、日々の練習の成果はいったいどこに蓄積されていたのか。
唯識でいう阿頼耶識とはここだろうと私は思っている。
膨大な唯識の言葉で人の心を説明しようとするこの本を読んでいて、私が感じたことは、
どこまでが瞑想の知、直感知なのか?
ということだった。
論理や思考では理解はできてもたどり着くことはできない。
そういえば著者は作中のどこかで、煩悩のことを感情や思考と表現していた。
私は仏教徒なんていうペシミスティックな生き物ではないから煩悩など知らない。
でもこの表現から察すれば煩悩とは、私の言葉でいう記憶や感情や思考のことだと思われる。
それはあなたがあなただと思っているあなた自身だ。
それはなくなりはしないし、なしでは生きていけない。
しかし制御することならできるだろう。
だがそのためにはあなたが「純粋な存在」に手をかける必要があるのだ。
記憶や感情や思考ではないあなたを知らなくてはならないのだ。
それがチャクラを学ぶということなのだ。