石井妙子著 「女帝 小池百合子」
近くの図書館に行ったら選挙戦が近いからだと思われるが、この本が棚に二冊置かれていた。
以前から少し気になっていたので借りて読んだ。
サハスラーラチャクラからウダーナ気が抜けたとき、私の頭に真っ先に浮かんだのは過剰という言葉だった。
頭の中で過剰になっていた、だから抜けた。
続けて飛び出してきたのが執着という言葉だった。
ウダーナ気の過剰が執着を生む…ということらしい。
自分らしくない言葉だ。
しかし執着とはそもそもどういうことか?
私たちは何に執着するのか?
チャクラ瞑想での私の答えでいうなら、それは記憶や感情や思考ということになる。
それは私が私だと思っているものだ。
しかし究極のところ、人間が執着するものとは自身の生命ではないか?
生命に執着せずに生きるとはどういうことか?
そんなことはわかりはしない。
だからウダーナ気を抜き続けることが肝要になる。
執着ということがウダーナ気の過剰なら、ウダーナ気を抜き続けることが執着を離れるための鍵になる。
それはラヤヨガメディテーションの練習を続けるということにつきる。
小池都知事は顔の右側に赤いあざを持って生まれてきたのだそうだ。
確かにこの本の表紙の顔写真でも右頬が赤く写っている。
頬紅かと思っていたのだけど。
小池都知事は幼少の頃からそのあざを医療用のファンデーションで隠し続けてきたらしい。
小池都知事はひたすらスポットライトの中を歩み続けようとした人だとこの本では読める。
元々器量はよろしかったはずななのに、不幸なことに顔に大きなあざを持って生まれてきてしまった。
私にはそれなら、俯き背中を丸め、人目を避けるような人生を選びそうな気がする。
しかし小池都知事は真逆の人生を生きた。
経済になどさらさら興味はなかったと思われるのに経済ニュースのキャスターとして世にでて、政治になど興味はなかったのに政治家になり、都政になどなんの興味もなかったのに都知事になった。
(笑)
選挙民としては大変迷惑だ。
以前一回だけ私のヨガクラスの練習に参加してくれた方がいた。
この方は不幸にも子供の頃の事故で全身にやけどを負った。
治療のために東京と故郷の間を往復し続けたのだとか。
長じて彼はプロボクサーを目指した。
私は耳を疑った。
着ていたTシャツの首元や袖口からはやけどのあとがはっきり見えた。
その悲しい傷跡をさらして人前で殴りあうというのか?
ボクシングジムに確か8年か9年通ったけど、プロテストは受けさせてもらえなかったらしい。
私が見ていても運動能力が高いとはとても思えなかった。
その後彼は競輪選手や演歌歌手を目指し、私が会ったときはなんとかテレビ業界に潜り込もうとしていた。
帰郷して就職とかは考えないのかという私の問いに、
「それじゃ工場務めとかになる」
と彼は答えた。
工場務めが気に入らないという理由が私にはわからなかった。
彼もスポットライトの中を目指していたと思われる。
小池都知事も彼も負わされてしまったハンデを乗り越えるためには、スポットライトの中にいなくてはならなかったということだろうか。
サットクリヤの練習中、彼は突然ひとつぶの文字通り大粒の涙をこぼした。
私にはその涙の意味がわからなかった。
小池都知事は初の都知事選のとき、石原慎太郎から厚化粧の大年増と罵られた。
そこで都知事は初めて自分の右頬にはあざがあるのだと訴え、それを隠すために化粧をしてきたのだと主張した。
初めて人前でその事実をさらした。
どんな気持ちだったのだろう?
小池都知事にせよ、一回だけ私のクラスに来た彼にせよ、強烈に何かに対して執着している。
苦しい人生だ。
はっきり言って悲しい。
今現在小池都知事は立候補の表明をまだしていない。
都政になど何の興味はないというなら、公約など守る気はさらさらないのだろう。
この本には小池都知事に苦しめられた大勢の人間の怨嗟の声が載せられている。
はっきり言って引退していただきたいのだけど、やはりスポットライトの中を目指して飛び込んで来るのだろうね。
都民としてはうんざりするし、人としてはやはり悲しい。