「マインドコントロールの仕組み」 西田公昭監修

 

マインドコントロールの技法について書かれている。

もちろんこれを読んだからマインドコントロールができるようになるという意味でない。

こういうことをやってくるから気をつけてね、という内容の本。

洗脳とマインドコントロールの違いは、洗脳というのは監禁状態のもとで薬物の使用や強制的な映像の視聴などを伴うもので、マインドコントロールとは会話によってもたらされるものだと定義されている。

強制力の存在が要になるらしい。

 

 

クンダリーニヨガのクラスに初めて出たときのこと。

変わった運動ではあってもそこに心眼流との共通点を見つけて私はニヤリとしていた。

最後に生まれて初めて瞑想なるものをやって、ややぼんやりしている中、終了後にシャバアサナに入って音楽が流れてきた。

 

 

この歌で一発で目が覚めた。

この歌は明らかに人を一つの方向に向かって誘導しようとしている。

私にはそう思えた。

いったんそう思ってしまうと鼻で笑いながら聞き流した。

まあ、それでも17年も相手をしているとさすがに慣れた。

ときどき生徒さんに感想を聞くのだけど、誰も私のような嫌悪感や抵抗感はもたないようだ。

こういうところ私は過剰に反応するらしい。

後にAjeet Kaurという3HOの歌手を知り、この人の歌は普通に聞ける音楽なので、クラスではこの人の歌ばかりかけている。

 

 
 
 
ティーチャートレーニングは朝4時からのシーク教の聖典の朗読で始まった。
すでにここから普通の日本人にとっては異様極まりない。
初日の瞑想では3HOのアジア地区の親分が指導にあたった。
親指と人差し指でL字形を作った手を前方に指し伸ばし、
「過去を想起せよ!胎生期にまで遡れ!」
と指示が飛んだ。
朝の4時5時に薄暗い中で白装束に身を包んで過去を思い出して、楽しかったことばかり思い出してヘラヘラ笑う人間はあまりいない。
参加者のほとんどは女性でもあったしで、過去の悲しい出来事ばかり思い出していたらしく、会場は悲鳴とすすり泣きに包まれた。
阿鼻叫喚。
私は懸命に前の日の晩飯の献立を思い出そうとしていた。
確か思い出せなかったと思う。
それが俗っぽい私の限界だった。
その日の朝の練習が終わって、「よくもまあこんなことやりやがるな」と思ったのを覚えている。
お断りしておきますけど、ティーチャートレーニングは行ってよかったと思っている。
いかなければ教えることはできないのだし。
まあいい経験ではあった。
1週間×3回で行われたあの期間中、私が考えていたことは牛丼やカツ丼や天丼や生ビールやハイボールのことばかりだったのだけれど。
 
 
私のクラスに来た生徒さんでも明らかにマインドコントロールされたと感じられる方が4人いる。
全員女性だ。
この4人が全く同じ反応を示すのでよくわかる。
 
それは私と私たちのヨガに対する露骨な軽蔑や嘲笑や愚弄。
 
まるで私の側近のような態度を取っていた(それも問題だ)生徒が、急に来なくなったので連絡してみると、
「私はあなたのような方からは学べません」
と返事がきた。
へ?あんた私から丹田もアジュニーチャクラの理解には眼球のリードが必要だということも学んだんじゃないの?
しかし何度も繰り返される「私はあなたのような方からは学べません」という言葉を見ていると、どうやらこのセリフを何度となく唱和させられたらしいというのは察せられる。
法の華三法なんかがやっていたベーシックなやり方だ。
 
また私のところに自分の友達まで連れて来たあと、インドの先生のところに行くと出かけたのはいいが、帰国して久しぶりにその友達に会うと私への敵意をむき出しにしていたというのもあった。
インドには聖人もいるかもしれないが、はるかにたくさんのペテン師がいる。
先日も勧められてインドの偉いヨガの先生が書いた本というのを読んだのだけれど、チャクラは私の感覚では実は三角形だと書いてあるのを読んで笑った。
三角形ならチャクラなんて名前がつくわけないだろうが。
(笑)
 
あとの二人はあの有名なヴィパッサナー瞑想の10日間合宿で変わった。
いくら一日中瞑想したからといって10日間で習得できるものではないだろうから、あの豹変は瞑想の成果ではない。
10日間ひとことの会話も許さないという環境の変化がもたらすものだろう。
当たり前だろう。
普通に暮らしている人間がそんな状況に放り込まれれば、変成意識状態や意識の変容を起こすことは珍しくもない。
聞くところによるとかなりセクショナリズムの激しい団体らしい。
夕方になると説法?のアナウンスが流れるそうで、そこではヨガを含む他宗教や仏教他派を激しく罵倒するとか。
またそのアナウンスの原文は英語らしいのだけど、日本語訳された内容は英文よりも排他性が高いらしい。
これは日本的な内向きの集団主義が加わっているということか。
ちなみにある男性参加者は耳栓をしたくなると言って笑っていた。
 
みんな真面目で素直な女性だった。
 
 
 
しかしこれらは瞑想ということに関して起きているだけで、経済的な過度の負担や生活そのものを壊したりしなければ、さして問題はない。
好きにすればいい。
 
しかし私は学ぶということには選択肢を増やすという可能性があると思っていた。
ところがこれらの行為は完全に選択肢を奪っている。
なるほど、他の選択肢を奪い取ってしまえば迷うということはなくなるだろう。
しかしそれがまともとは思えない。
それは救いなどではない。
 
それしてもヨガや瞑想の先生とは、こんなマインドコントロール合戦を皆でやっているのだろうか?
 
(笑)
 
ぞっとする。