たぶん私の年代の人間にとって、多様性という言葉はある種の輝きがあったんじゃないか。
若かりし頃。
私は集団に属することがあまり好きではない。
上下関係その他諸々の人間関係に神経をすり減らして集団の中にいるよりもひとりでいる方がいい。
そういう私にとっては多様性の尊重なんて言葉は魅力的だった。
多様性というものを本気で追及すれば、社会は個人という単位でバラバラになる。
さらにいうと個人というものも諸要素でバラバラになると思う。
でも私にはそれでいいと思われた。
同一性の強い集団の中で我慢を重ねているよりずっといい。
もちろん、こちらが多様性と称して相手を受け入れても、相手が多様性など歯牙にもかけず「統一性」のようなものを求めてくれば、どうにもならないのはわかっていたけれど。
クンダリーニヨガのティーチャートレーニングを修了して、他のヨガなど一切やったことがなかった私はちょっとまずいよなということで、流行っていたヨガを少しだけ学んでみた。
そこで同じぐらいの年齢の男性インストラクターに会った。
彼は私のようなプラプラとは違い、大学で哲学の勉強をしてどこかの会社で立派にサラリーマンを勤め上げながらヨガの指導もしていた。
クンダリーニやってますよと初対面で答えると、呼吸法中心のヨガでしたっけ?とか軽く笑いながら聞いてきた。
火の呼吸のことだろう。
彼にとってヨガとはアサナのことらしかった。
つまり体の柔軟さだ。
バンダと聞くと小首をかしげて笑っていたし、呼吸法とか瞑想とかいうものに興味を持っているとはとても思えなかった。
何回か彼のクラスに参加した。
でもヘッドスタンディングは間違いなく彼に教わった。
彼の属する団体の偉い先生が日本に来たときは、物は試しで主催されるワークショップに参加した。
女性が200人ぐらいで男性が5人だったか。
あれはあれでものすごい経験だったと思う。
200人の女性の汗の臭いの中にいるというのは、普通の男性にとってなかなかできる経験ではない。
しかし私はクンダリーニヨガのインストラクターだから、それほどにあのヨガを学ぶ理由はなかった。
やったことがないのはまずい、それだけだ。
それに私は何よりも柳生心眼流の免許皆伝だ。
彼のクラスからは足は遠のいた。
後に小さなキールタンのコンサートで偶然彼に会った。
彼は驚きを隠すことなく私の顔を見た。
今は何をやっているのかとたずねてきたので、クンダリーニと武術の稽古だと答えた気がする。
「クンダリーニだけか」
吐き捨てるように彼はそういったか。
その後、当時私が書いていたブログを見つけたらしく、その内容に対して自分のブログで執拗にケチをつけるということを繰り返してくれた。
もっとも書く内容が骨や筋肉のかなり専門的な話になると黙り、ごく一般的なことになると嚙みつくという感じだったか。
それがあんまりしつこかったので、
大東亜戦争のとき、この国は東南アジアに進出だか侵略だかした。
そのとき各地に神社を立て、天皇の写真を飾り、頭を下げよと現地の人に強要し、従わないと暴力すら振るった。
野蛮な行為だ。
なぜ我々はあんな野蛮なことをしたのか?
それはあんたが私に対して抱いている感情と同じだ。
同じになれ、同じことをやれ、同じ人間に頭を下げよ、そういうことだよ。
すると黙った。
彼は多様性を尊重していただろうか。
そんな話はしたことはないが、たぶんしていただろう。
ただし彼が多様性という言葉の中に見ていたのは、違う人種、違う民族、違う宗教を信じる者に対してだ。
違うヨガを真剣に学ぶ人間は、彼の考える多様性の中に含まれることはなかった。
ということだと思われる。
浜崎洋介という学者がYouTubeでこんなことを話していた。
戦前にドイツ系ユダヤ人の哲学者が日本に来て言ったのだとか。
「日本人は二階建ての家に住んでいる。
その家の二階にはプラトンからハイデッガーまで全て揃っている。
一階では囲炉裏を囲んで生活をしている。
そして二階と一階をつなぐ梯子や階段はない。」
多様性という言葉も二階にしまわれているだけだと思っていい。
ちなみに私は仏典も四書五経も二階にしまわれているだけだと思っている。
(笑)
ヨーロッパの移民問題の失敗は、とりあえず多様性という言葉をゴミ箱に放り込んだか。
ならば社会の統一性が前面に出てきたとき、これはこれで住みにくい社会になるなとも思う。
映像は何年か前でのドイツケルンでの暴動の様子。
この女性どうなったんだろう。