瞑想の指導などしていると、
「これやったら集中力つきますか?」
という質問をたまに受ける。
自分は集中力が強いかとはたと考えてみるのだけど、比較できるものでもないので答えに詰まる。
たぶん人並みだろうと思う。
おおむね人は自分の好きなことには集中できるだろうし、そうでないことには気が散るのが普通だと思う。
集中とは目の前の行動や思考の実践に対して、余計なことを一切考えないということなのだと思われる。
考え事をしながらゆで卵を作ろうとしたら、生卵を見つめて時計を茹でていたなんて話は集中力の強さを表すのだろうか。
私感だけれど、脳はいかんともしがたく気が集まりやすい。
これはヨガで言えばウダーナ気だろう。
人間は思考する生き物だからこれは避けられない。
いや思考し続ける生き物だといっていい。
ウダーナ気は頭の中で過剰になる。
この過剰こそが執着を生み、たぶんそれは無駄な思考を生み出す。
ならばそのウダーナ気を抜ければ、つまりサハスラーラチャクラを働かせて頭上に抜き上げることができれば、原則的には集中力は上がると思われる。
なんで集中力なのだろうか。
たぶんそれは仕事に生かすためではないか。
ひたすらに効率の追求のためではないか。
最近はタイパとかいうのか。
20世紀半ばか後半以降、世界はひたすらに効率を追求してきたんじゃないか。
移民問題なんて最たる例で、そもそもは低賃金労働者の囲い込みだったのだと思うのだけど、ヨーロッパを見ているとその国の秩序の根底にある文化を破壊した、またはしようとしているように思われる。
また全てのものを商品化、債権化しようという流れは顕著だった。
全てを債権化して金に換えようという欲の顛末がサブプライムローンだったんじゃないのか。
どこかの国は自国の水道すら売り飛ばし、失敗に気付いて慌てて買い戻したりしていたんじゃなかったか。
ヨガとか瞑想とかいうのはこういう世界に対するカウンターカルチャーなんじゃないのか。
効率を追求する世界に対して、時間をかけて少しずつ自分を磨き上げていくという世界なんじゃないのか。
今度集中力がつきますかという人物が現れたらなんと答えようか。
ウダーナ気についての説明をしたあとで、
「方向性としては集中力をつける可能性はありますが、みなさんが望んでいるらしい効率を要求する世界に対するカウンターカルチャーだと思っていただきたい。
偏りがちな精神のバランスを取るためのメソッドだと思っていただきたい。
私のクラスに関する限り、その求めるところは真の幸福と自由であると思っていただきたい。」
そう答えようか。