少し前にハワイに在住しておられる方が友人と一緒にクラスに参加してくださった。
当地には、ハワイ限定なのかアメリカ全体なのかはわからないけれど、アサナティーチャーという言葉があるんだとか。
はっきりいって蔑称らしくて、きれいなアサナができるだけの先生という意味らしい。
なかなかに厳しい。
アサナがきれいにできるだけではだめだとするなら、何ができればいいのか。
おそらくはサーンキャ哲学やウパニシャッドを学ぶことになるのではないかと思う。
しかしこの生徒さんに言わせると、
「お前それテキストそのまま読んでるだけだろうがー!」
ということになるらしい。
これまた厳しい感想である。
もっとも本を読むことは誰にでもできるので、先生と同じ本を読んだ生徒にとっては「ああ、それか」で終わるのは当然のことでもある。
私のところではいわゆるハタヨガっぽいポーズはほとんどやらない。
私はあまり意味があると思っていない。
それでも私たちのヨガのクリヤ(既定のセットメニュー)で出てくるポーズは1回ぐらいやっておかないとまずいかと思っているので、10回1セットのメニューで1回だけ、
コブラのポーズ(知らない人はググってくれ)
キャメルのポーズ(ググってくれ)
鋤のポーズ(ググってくれ)
チャクラのポーズ(いわゆるブリッジ、頭は床から上げたい)
を練習している。
私のところの生徒さんは今現在ほとんどが40代50代のおっさんと呼ばれる方々な上に、私もアサナの下手くそなセンセーだからみんなして、
「ぐえー」とか
「うげー」とか
「ぐるじー」とか言いながら、楽しく練習している。
はっきり言って馬鹿馬鹿しいから止めようかと思うこともあるのだけど、こういうことが得意な方もいるし、いい気分転換になるという意見もあったりで、まだしばらく続ける続ける。。
私もこの手の能力を維持するために、もうしばらく努力を重ねる気でいる。
ちなみにあと3年で還暦なのではあるが。
アサナがきれいにできるだけではダメで、テキストを読んで語るだけでもダメ。
要求されているのは、それを学んで何を身に着けたのか、何を知ったのかを自分の言葉で語れるかということなのだと思われる。
アメリカでおきていることは何年か経てば日本でもおきるというのは定説だから、しばらくすれば日本でも要求されるようになるかもしれない。
プラーナ気をサハスラーラチャクラから頭上に抜き上げた瞬間に幸福感を感じる。
この幸福感は対象を持たない。
美味しい食べ物や飲み物、おもしろい本や映画、楽しい出来事や人間関係などなしで感じ取れる幸福感。
相対化できないという意味で絶対の幸福。
存在とは身体を知覚するプラーナ気の働きだ。
これを頭上に抜き上げるということは有形有限である身体への知覚を無形無限である空間に放つということになる。
無限の空間を自身の存在として知覚するようになる。
これは絶対の自由だ。
これは私自身の経験を自分の言葉で書いている。
出典はない。
最近は尾骨の下あたりが、以前より柔らかくなってきた気がする。
頭上に抜けるようになるということと、尾骨の下辺りには連動性があるらしい。
個人的に一番嬉しいのは、やれ熱だ光だ幻覚だと、クソの役にも立たないようなことばかりこと沙汰されるクンダリーニエネルギーとかいうやつが、この世の中を現実に生きるということにとっても、十分に有益なものだということがわかってきたということだと思う。