頭頂部サハスラーラチャクラからプラーナ気が抜けあがるという変わった経験から、かれこれ半年経った。
スっと頭上に気が抜けたとき感じたことは、頭の中で気が過剰になっていたのだということ。
これはたぶん人間の宿命だろう。
その瞬間、過剰とは執着だと閃いた。
これが後から思うと不思議で、過剰=執着となった「理由」がさっぱりわからない。
あ!そういうことか!という確信だ。
それ以上説明できない。
純粋な確信とはそういうものなのかもしれない。
では我々は何に執着するのか。
その後何日か考えていて、ひもが解けるようにしてつながった。
それは記憶や感情や思考だ。
かれこれ10年から前、私はチャクラ瞑想でチャクラの出現と同時に自身の消失感を経験した。
それは朦朧としていたりおかしな興奮状態にあったのではなく、普段と同じ精神状態の中でおきた。
記憶や感情や思考はいつもと何も変わらない状態で、自分自身がそこから消えてしまったということは、自分の存在を決定づけているものは記憶や感情や思考ではない何かだということになる。
私たちが私たちだと思っているものは、通常記憶や感情や思考のことだろう。
しかし私たちの存在とは記憶でも感情でも思考でもない何かだ。
しかし悲しいことに私たちは私たちの記憶や感情や思考に執着し続けるわけだ。
「気」は集中で特定の部位に集まる。
チャクラ瞑想でのあの経験は、自身の存在を知覚させていた気をチャクラという特定部位に集めたことでおきたと思われる。
無自覚に自身を知覚させていた気をチャクラに集めたことで、自身の存在する感覚が消失したのだ。
このことは驚いたことに気は認識に及ぶということを教えてくれる。
そしてその気を頭上に抜き上げることに成功したということは、私の認識は身体から頭上に広がったことを意味する。
ここでいう認識は自己の存在する空間の認識である。
身体というものはやはり有限なものだから、身体内にあった気が頭上に抜けると、私たちは有限を抜け出す。
つまり無限を知る。
よく「宇宙」という言葉を使う人がいるけれど、あれはどうだろう。
ヨガや気功の世界で私と同じような経験をした人間は、歴史上たくさんいたに違いない。
彼らはそれぞれの感覚を、「無限」とか「天」とか「神」とか呼んだのではないかと思う。
こういう言葉は人間の内側からでる言葉だと思う。
しかし「宇宙」は違う。
人間が宇宙の存在を本当に知ったのは20世紀に入ってからのことに過ぎない。
それは知識の共有を前提に発せられた言葉ではないか。
そして知識とは記憶や思考の内にあるのだから、執着すべからざるものなわけだ。
お断りしておきますが、私は日常において「執着すべきではない!」などと力んで生きているわけではありませんので。
私は日々ラヤヨガメディテーションやロングチャントやキルタンクリヤを繰り返して、気を介して自身の制御にいそしんでいるだけです。
特に道徳的な人格的な向上などというものは感じてはおりませんので。
お間違いのなきよう。
お料理通信
S&B製のスパイス、ターメリック、クミン、コリアンダー、チリーペッパーを買い揃えてインド風スパイスカレーなど作ってみました。
カレーは玉ねぎ料理だということを初めて知りました。
そういえばアムリトサルのハリマンデルサヒブ(黄金寺院)に行ったとき、無料施食のためのボランティアの皆さんがものすごい数の玉ねぎを刻んでいたのを思い出しました。