ラヤヨガメディテーションはチャンティングと一緒にバンダを下をかけ上げ、同時に体の中に螺旋を描きつつ最後に頭頂部から頭上の空間にその螺旋を抜き放つ。
ただの意識ではなく、気とかプラーナとかいうものを抜き放つのに成功したのはざっと半年前か。
その瞬間感じたものは多幸感。
幸福というものには常に対象がある。
食べるもの、飲むもの、好ましい人と過ごす時間、その他もろもろ。
当然これらは全て失われたり不足したりするものだから、そこに不安や不満がつきまとう。
しかしあの多幸感は違う。
一切の対象を持たない幸福。
失われることのない幸福、バガヴァッドギーターの言葉でいう不滅の幸福。
私は幸福などというものは、壊れやすく移ろいやすいのは当たり前なのだから、そうだと思って対処すればいいと思っていた。
ペン先でガラス玉を押さえ込むようなものかと思っていた。
しかしそうではない感覚の存在を知った。
こういうことは経験しないとわからないのは当然の話。
プラーナ気(という呼称が一番相応しい気がする)は自己の存在の認識に関わる。
身体の中に閉じ込めていたプラーナ気が頭上に抜けあがったとき、身体という有限から解放される。
昔いた生徒さんの中に、横隔膜の緊張を抜くことに成功したとき「解放感を感じるなあ」とつぶやいた方がいた。
しかしこれは解放ではない。
自由でも幸福でもない。
やはり無限だ。
あの経験から半年経って、いまどう感じているのかというと。
どうやら人間とはこういうもんらしいということに尽きる。
お料理通信
年末年始、加工済みではあるがあさりを買ってきてクラムチャウダーを作ってみた。
牛乳の甘さを邪魔しない塩加減を覚えるのに手間取ってしまい都合4回作った。
年末阿佐ヶ谷へライブを見に行き、近くの酒屋に寄って正月用の日本酒を買ったのだけど、ついでに店頭で売っていた酒粕も買ってきた。
それで粕汁三昧になった。
粕汁には里芋が欲しいので大量の里芋の皮をむいた。
また年末に東急のデパ地下でゆり根を買ってきた。
粕汁三昧に茶碗蒸し三昧である。
食べることはまことに刹那な喜びではあるが、それはそれでこれはこれなのだ。