バガヴァッド・ギーターというのは主人公アルジュナが戦いにのぞんで、敵軍に身内や友人や師の存在を知り、悲嘆のあまり崩れ落ちるところから始まる。
「アルジュナはそこに、父親、祖父、師、叔父、兄弟、息子、孫、友人たちが立っているのを見た。
更に、義父、親友たちを見た。両軍の間に…。」
「クリシュナよ、戦おうとして立ち並ぶこれらの親族を見て、私の四肢は沈みこみ、口は干涸び、私の身体は総毛立つ。
ガンディーヴァ弓は手から落ち、皮膚は焼かれるようだ。私は立っていることができない。私の心はさまようかのようだ。」
こういう状態のアルジュナに向かい、クリシュナ神は、戦え、己の務めを果たせと諭す。
なんと非情な。
どのようにしてアルジュナはこの迷いを断つのか。
個人的にお気に入りの第5章の終りの部分を引用すると。
「外界との接触を離れ、眼(まなこ)を眉間に注ぎ、鼻孔を通るプラーナ気とアパーナ気を均等にして、感官と意(マナス)と知性(ヴッディ)を制御し、願望と恐怖と怒りを離れ、解脱に専念する。」
ちなみにヨギバジャン師の著作「真理のひびき」では解脱の下にかっこで絶対的自由とある。
この言葉の少し前にはこうある。
「外界との接触に執心せず、自己(アートマン)のうちに幸福を見出し、ブラフマンのヨーガに専心し、彼は不滅の幸福を得る。」
アートマンやブラフマンをあるかないかで語るのは無意味だ。
そういうものを知覚なさしめる経験が存在するだけだ。
ブラフマンというところに、ちなみに私はヨギバジャン師式に「無限」という言葉を当てはめる。
私たちが無限を知覚し得るのは、その頭上にプラーナ気(ウダーナ気)を放つことで達せられる。
驚いたことにプラーナ気というのは認識に深く関わる。
そしてこれは幸福感に結びつく。
当然相対的な幸福感ではないから、「不滅の幸福」という言い方もできる。
相対化できるものがないのだ。
これはサハスラーラチャクラの働きであり、同時にアジュニーチャクラの働きのレベルを上げる。
アジュニーチャクラが働くと迷いが消えてくる。
これは自由を感じさせる。
自分でも変化がはっきりとわかった。
人は迷いや躊躇があるからこそ守られるという要素もあるのだから、少々まずい気すらした。
ここ数年ふた昔前の(失礼!)空手のチャンピオンが練習に参加してくれている。
まだ総合格闘技などというものが世に現れる前の話だ。
大きな団体ではないけれど過激なルールで試合をすることで有名だった。
彼の試合の映像を見ていると、何のためらいも見せずに危険と称される技も使う。
あんなルールであんな技を使うことを怖いとは感じないのかとたずねると彼は、
「やらんとやられる」
と答えてゲラゲラ笑った。
彼にキルタンクリヤを教えると数回の練習で眼球の動きをつかんだ。
アジュニーチャクラの存在を理解するには、この眼球の動きは必須だ。
早いですね、というと怪訝な表情を浮かべるのでわけを聞くと、こんなことは子供の頃から知っているという。
彼に言わせると、小学生の頃に寝るときに眉間に意識を集めると寝やすいということに気付いたのだとか。
つまり子供の頃から無自覚に、毎晩アジュニーチャクラへの集中を練習していたことになる。
あの迷いのない試合には、こういう能力があったんだと今にして私にも理解できる。
というふうに読むので、私にとってバガヴァッド・ギーターはアジュニーチャクラとサハスラーラチャクラの技術論の物語として読めてしまう。
最後にアルジュナはこう答える。
「迷いはなくなった。不滅の方よ。あなたの恩寵により、私は自分を取り戻した。疑惑は去り、私は立ち上がった。あなたの言うとおりにしよう。」
いつものように
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