モロッコに行ったときにカサブランカの露店でキーホルダーを買った。
余談だけどモロッコでは何度となく露天商に「ニーハオ、ニーハオ」と声をかけられ、「ジャパニーズ」と答えていたら、「オー!ジャパニーズ、ニホンジン」と反応があって、大体続けて「ビンボープライス!ビンボープライス!」と叫んできた。
あんたたちに言われたくはない。
マラケシュの宿から日帰りでエッサウィラに行ったとき、やはりビンボープライスを連呼されたので、そういうときは「ヤスイヨ!ヤスイヨ!」というのだと教えてやった。
それはともかく。
写真のキーホルダーはカサブランカの旧市街の露天商から買った。
何て書いてあるんだと聞いたら露天商の男は人差し指でひょいひょいと上を指した。
神、彼らの場合はアッラーということになるらしい。
上空を、天を指さすのは神を意味する。
神は天にいる。
確かに日本の神も高天原から降りてくる。
キリスト教では「天にまします我らが父よ」と祈る。
これはプロテスタントでもカソリックでも共通らしい。
ヨギバジャン師の邦訳された著作「真理のひびき」には、
”この有限なる現身において無限を体現するためには、何かがなされなければならない。
この有限なる形で、肉体があなたに与えられたのは無限を体験するためだ。
そしてそれが神の唯一の目的なのだ”
とある。
有限な自分の身体から、その頭上、無限の天に向かって自身の生命力を発する。
これが無限に、神に、天に連なるという行為の正体だと思っていい。
これは信仰とか帰依とかいうものとは違う。
「連なる」のだ。
ヨギバジャン師は出家を禁じた。
stay home と唱え、家庭や仕事を大切にしろといったらしい。
ハタヨガは出家した人間のやるものだが、このヨガは在家の人間のやることだともいったらしい。
激しい個人崇拝と同一の価値観で結ばれた人間が共同生活を営むというのは、一般的な社会から受け入れられ難いから禁じていたのだろうと思っていた。
実際にもし出家制度なんてあったら社会的役立たずと非社会的ろくでなしの巣になっていたにちがいない。
でもひょっとしたら…
実はこのヨガのもたらす福音とは、全てを捨てて出家した人間ではなく、俗世を生きる人間にとってこそ有益なものなのだと、ヨギバジャン師は思っていたのではないか。
何の証拠も裏付けもないがそう思う。
火の呼吸を使った種々のアサナは下腹部を締め、みぞおちを緩めることによって呼吸を支え、自ずからの中に熱を生みだす。
サットクリヤは姿勢を作り、スシュムナーを練り上げる。
キルタンクリヤは彷徨う視線をアジュニーチャクラに結びつけ、頭部と胴体の関係性を再構築し、サハスラーラチャクラと頭上オーラとのつながりを作る。
ロングチャント、チャクラ瞑想においてはチャクラの出現と引き換えに身体の消失感を知らしめ、それは私が私だと思っているもの、つまり記憶や感情や思考は、真の意味での自身の存在とは関係はないのだと伝える。
ラヤヨガメディテーションでは、その真の自身の存在をサハスラーラチャクラから頭上の無限の空間に放ち、無限と連なり、そして神を知る。
これが私たちのヨガではないか、と私は思っている。
「真理のひびき」はかなり昔に買って、宗教家とか哲学者とかいうのは、こういうどうにでもとれるようなくだらないものを書きやがるもんだと思って放置していたのだけれど、今は驚きで目を見張りながら付箋だらけにして読んでいる。
必要とする人はあまりいないと思うけど、アマゾンでは古本が随分安く売られている。
別に薦めはしないがこのヨガを学ぶなら、手元に置いて損はない。