ベーシックインカム(続編) | 気力・体力・原子力 そして 政治経済

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原子力と経済についてはうるさいですよ!
 (旧有閑爺いのブログ)

 以前(もう3年半前のことです)に下に示す記事をアップしました。この記事は「みぬささん」が「進撃の庶民」に寄稿された【お金と仕事の話し】に対してコメントし、そのフォローで書いたものです。
 蛇足ですが、この当時の「みぬささん」の書いていることと、今の彼のコラムとの差が「ミイラ取りがミイラになった」という事実を如実に示していると思いませんか?


 上記の記事で、私が申し述べたことは「各個人は諸々の事情により収入に差が出来ますので、その収入の個人差のベース(いわば最低基準)に関して議論があるのは当然です。しかしながらその議論は働いて得た物を分かち合うということにたどり着くのは必然であり、そのことがベーシックインカムの土台となる」ということです。
 つまり、労働分配を論じることがベーシックインカムを論じることなのだ、と主張したのです。

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 残念ながら、現在は「ベーシックインカム」は極めて狭い偏った使われ方、すなわち「金を配ること」といった意味合いで使われます。


 実は、「ベーシックインカム」は極めて筋の悪い経済理論(申すまでもなく貨幣論者の唱える経済理論)の提言の一つである「ヘリコプターマネー」に端を発しているのです。
 「ヘリコプターマネー」とは、ミルトン・フリードマンが1969年に「ヘリコプターから国民に対して紙幣をばらまいたと仮定すると」というようなフレーズを用いて、経済政策を語ったことに由来します。

 このことの衝撃は大きくて、誰もが『紙幣をばらまいたと仮定する』ことを自然体で持ち出すようになりました。例えば私が「進撃の庶民」に寄稿した【「あらためてGDPとは何か」~有閑爺い様】へのコメントに次のようなものがありました。

==引用始め
4. 無題
例えば、国民全員に100万円すつ(財政赤字を通じて)配ったとして、それが全く消費されないのであれば、有閑さんのおっしゃるように「通貨と経済には何の関係もないのだ」と言うことが出来ると思います。
・・・
望月夜2018-01-08 16:19:13
==引用終わり

 「国民全員に100万円を配る」という荒唐無稽な設定をして議論を組み立てることに、持ち出した本人が何ら不思議を感じないほど、経済学は「幼児化」してると感じました。とても大の大人が考えることではありません。
 つまり、ミルトン・フリードマンの唱えた「ヘリコプターマネー」は、幼児が唱えるがごときものであるわけで、さすが「ノーベル経済学賞」を受賞しただけのことはあります。因みに「ノーベル経済学賞」は「ノーベル賞のパッチもん」で、ノーベル財団とは無関係の「賞」です。
 現代経済学の唱える「説」など、所詮は「パッチもんを与えれば済む」だけの下らない与太話です。

 実は「ベーシックインカム」の議論は、この荒唐無稽な設定とあまり変わらない議論なわけで、差と言えば金額だけでありますので、それ単独で議論をする場合は「ヘリコプターマネー」と明確な切り分けをやらないといけないと思います。


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 本題に入りますが、私は「ベーシックインカム」を論じる基本は、「労働と所得ならびにその分配」であると考えており、「通貨は、その所得分配を滑らかに行うための道具に過ぎない」と考えています。

 インカムとは収入なのですが、普通は収入の大部分を所得が占めますので、結局はGDPを論じなければならないことになります。
 そのことを冒頭に言葉を変えて述べたわけです。また、そのことを違う形で述べたものが、かつて「進撃の庶民」にアップした【需要と労働」-老いの一徹】という記事です。

 その中で、『「需要=生産」であり、それは「労働の成果」であることは万人の認めるところです。そして労働の成果は「所得」として評価されることも万人の認めるところです。』という文言と『所得は、その全てが労働をした人のものになるのでなく、社会システムの組織や構成員全てに、その役割に応じて分かち与えられるのです。』という文言を以て、「所得分配」に目を向ける大切さを述べました。
 なので「ベーシックインカム」の議論もその延長線上にあるべき話だと思います。

 分配を嵩上げする(つまりインカムを増やす)ためには、GDPを増やすことが最も摩擦なく行えることです。
 分配比率に変更を加えても事態は改善しません。例えば「労働分配率」を上げれば、労働者の収入は増えますが、ほかの部分の収入が減りそのことは摩擦を生む原因となります。また、消費税を上げれば政府のインカムは増えますが、労働者の可処分所得(インカム)を減らしますのでこれも摩擦を生みます。
 
 では、「ベーシックインカム」という名の「通貨配り」はどうなのかです。
 実はこのことには隘路があって、配られた通貨が何処にどのように向かうのかがはっきりしないのです。
 また、普通の場合は配る通貨は印刷して作ったという前提を置くのですが、現状の日本ではそのことはほぼ不可能ですので、市中銀行から借り入れて配るしか方法が無いわけです。つまり、全国民に代わって政府が借り入れを行い、借り入れたものを全国民に配って「さあ使え」と強要するわけです。普通に考えれば異常な図式です。

 次に「税」ですが、税は基本的には所得の分配であります。従って所得に対して割掛けるべきもので、しかもその割掛けは所得に対して累進的であるべきです。そのことで「所得再分配」が正しく機能するわけです。つまり税は所得再分配の源資でもあるのです。
 税で得た通貨を給付の形で直接配ることは「ベーシックインカム」という配り方ではありませんが、行われていることです。例えば生活保護あるいは国民年金などがそれです。つまり、通貨の配り方にはいろいろな選択肢があるということです。「ベーシックインカム」に拘る必要など何一つありません。
 なお、消費税という税は生活困窮者にも等しく課税が行われる弱者虐待の税制であり、即刻廃止すべきものなのですが、そのことと「ベーシックインカム」には直接の関係はないので、切り分けて議論すべきです。
 私の見解を述べるならば、「ベーシックインカム」は政策として議論の対象外だと思います。
 
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 政府が借り入れを行い、それを直接付加価値の購入に支弁するなら、その分だけ経済は必ず拡大します。実は現在の政府はそのことを実施しているのです。がしかし、政府支出とほぼ同額の預金が民間サイドで行われており、結果として(トータルとして)経済の拡大は認められず、停滞しています。
 民間の預金の大部分は「企業の内部留保の積み増し」であります。そのことは非難の対象ではないのですが、賞賛に値する行為でもありません。結果として衰退に尽力する行為です。
 
 民間は「損は出来ない」ということを最低の判断基準として行動します。しかし、政府は損得を云々するために存在するものではありません。民の生活の向上を企図して行動する存在です。
 「民の生活の向上を企図して行動する」ということが、「通貨を印刷してそれをばらまく」と言うことなら、所詮は「能なし」「役立たず」がやることです。
 「ベーシックインカム」など議論に値しないものであると考える所以であります。